美人は性格が悪い ③

ラディカルな意見は、ひとを惹きつけるものだ。たとえそれが、破滅的な極論としか呼べなかったとしても。

 

定説とは違う意見は、新たな視座をくれるものだ。たとえそれが一面的な分析で、定説がカバーできている多くの問題に、無理のある答えを出すとしても。

 

彼の――わたしの脳内に住まう、性癖に忠実な彼の――セリフも、そんな考え方のうちのひとつだろう。彼は彼自身の論理で、世界のステレオタイプに新たな解釈を与えた。初めて聞くゆえに、真実味のある解釈を。

 

美人は性格が悪いというステレオタイプ

 

彼によれば、美人が実際に性格が悪いわけではない。さらには、ひとが美人を蔑もうととして、性格を標的に攻撃を仕掛けているわけでもない。

 

彼によれば、ひととひととの公平性のために、美人に性悪の役割を付与しているわけでもない。

 

そうではなく彼は、ひとが美人を賞賛し、崇拝するために、美人の顔の良さにさらに加えて、性格の悪さという魅力を付与しているのだと考えている。

 

魅力足すことの魅力は、より大きな魅力。

 

それは定説の枠にはまらない意見だ。激しい思い込みに基づく、普通でない発想だ。地に足の着いた論理では、決して至らない境地だ。

 

そして彼はそこにいる。

 

そして大方の場合、そういう飛躍した考えは、単に間違っている。

 

だがそういう考えには、しばしば説得力がある。論理的に考えれば欺瞞と決めつけの集大成だと気づくような極論は、しかしながら、論理ではない部分でひとの認識に訴えかける。

 

それこそが真実だと、ひとに錯覚させる力がある。

 

彼の考えに、ひとは頷いてしまう。

 

おそらくは、彼が断言するがゆえに。

 

極論は数あれど、暴力的な説得力を持つ極論には、ひとつのれっきとした共通点がある。それはその論理が、論者の主観に基づくということだ。その主観は斬新で、だれもその正誤を真面目に考えたことがないから一見、すべてを正しく説明できているように見えてしまう。

 

セリフの彼だってそうだ。性格の悪い美人は魅力的だという前提は、かならずしも万人にはあてはまらない。かりにあてはまったとして、それが「美人は性格が悪い」を導くほどの、強い社会的な原動力になるかはわからない。

 

反駁はいくらでもできる。正しいと確信できることはひとつもない。

 

確信できないすべては、きちんと検証される必要がある。

 

真実とそうでないものを峻別するふるいに、彼はかけられるべきだ。

 

だが、彼は検証をすっ飛ばして、ただ言い切る。魅力的だから、願望を押し付けるのだと。

 

それは論理でも何でもなく、単に彼の性癖の発露に過ぎない。

 

そしてそれゆえに。完全に主観であるがゆえに。

 

彼の論理は明快で、直感的で。彼が説明できている以上、ほかのすべての意見は欺瞞にすぎず。

 

彼だけが正しく、彼以外のすべては間違っていて。

 

それゆえ、彼は魅力的だ。

 

問題のすべてを、彼は単純明快なひとつの論理で説明しようとする。美人が実際に性格が悪いのだという可能性に、彼は真面目に取り合わない。

 

その必要はないから。わざわざ論点を増やして、わかりにくくする必要はないから。彼はこう考える。すでに説明がついているのに、これ以上なにを考える必要がある?

 

世の中にはルールがある。真実とはいつも複雑なものだというルールが。

 

ルール上、ひとは決して真実にたどりつけはしない。真実とはあいまいな雲の中にあり、探求に終着点などない。できるのは、真実のまわりをぐるぐると回り続けて、その姿をおぼろげに把握することだけ。

 

そういうルールで、世界とはできている。

 

だが彼は、そのルールを拒否する。世界は単純であるべきだから。

 

主観の力強さを武器に、彼はルールと戦う。世界をひとことで言い切る。

 

真実が見えているのに、見えないふりをする理由はない、そう考えて。

 

そう考える、すべてのひとを味方につけて。