純粋の虚像 ②

食券を買わずに、カウンターに座る令嬢。もちろん、丼は出てこない。机の上にメニューがないことに彼女は気づいている。その事実が意味することにも。

 

バイト店員の安時給では、彼女に話しかけて注文を促す理由はない。むしろ店員は、彼女というこの世ならざる存在を目の保養とするほうを選んだようだ。だからずっと、彼女は優雅に座ったまま。努めて見せる優雅さ、人工のオーラを身にまとって。

 

だが彼女は、店員が思うような世間知らずの令嬢ではない。彼女自身が一番、そうわかっている。

 

もっとも傍目に見れば、何の違いもないのかもしれない。依然として彼女は、温められた肉の粗暴さとは別の香りを漂わせ、店の空気を書き換えている。事実、彼女の欺瞞には誰一人気づかない。オーラは嘘より強いから。

 

ただ唯一異なるのは、彼女が自分を演じていること。彼女自身を、彼女が騙していること……

 

純粋さの虚像を追いかけて……

 

彼女は魅力的だろうか。理想的な純朴さを喪いながら、それでもその虚像に縋る彼女は。

 

……魅力的かもしれない。それは認めよう。超然とした態度の裏に、等身大の悩みを抱えた存在。見た目と心情のギャップ。それもまた魅力のパターンだ。

 

だがそれは、冒頭の彼女の魅力ではない。彼女の見せたい彼女ではない。いや、彼女の見せていたはずの彼女ではない。食券を知らない彼女と、あえて買わない彼女。ふたつの像のあいだには、越えがたい壁がそびえている。

 

では彼女は、どうすればよかったのか。いつまでも、美しき純朴のままでいるためには。

 

ひとつ抽象論を語ろう。理想の自分とは、計算なしに、理想の自分そのものである自分だ。理想であろうとせねばなれない自分は、すでに理想の自分ではない。理想の自分であるためには、理想の自分を目指してはいけない。ただ自然に、純粋に、無意識に、自分は理想の自分そのものでなければならない。

 

理想を目指す自分の居場所は、理想の自分の中にはない。

 

理想の自分を意識すれば、もうそれは理想の自分ではない。理想でないことを知った瞬間、もうひとは理想ではなくなってしまうから。その意味で、理想と現実は乖離してはいけない――乖離したことがあってはいけないし、そう疑ってもいけない。

 

理想の自分を定義するのは、知識ではなく無知である。なぜなら理想とは無垢だから。無垢とは無知だから。余計な知識は疑念の種。疑念とは、理想からの乖離を見せつけるためのシステム。

 

理想であるためには、ありのままであるしかない。

 

だがもちろん、そんなのは机上の空論だ。いや、矛盾した態度だと言ってもいい。理想とは目指すから理想なのだ。目指していると、目指してしまうと知っているから理想なのだ。目指せない理想に意味はない。

 

知りたくなくても、知ってしまうことはある。気づきたくなくても、気づいてしまうことはある。忘れたくても、忘れられないことはある。

 

無知であるためには、一度も知ってはならない。だが、知らないように努力するのは不可能だ。そうした時点で、すでに知ってしまっている。


一度知ってしまったなにかを、忘れようとしても無駄だ。なにかを忘れようと努力する行為は、かえってその記憶を蘇らせる。蘇った記憶は再び、脳に新鮮な記録を刻みつける。正のフィードバック回路。反復による記憶の強化。

 

かくしてひとは、理想を目指し、そして理想から遠ざかる。