清純なる契機

おはよう。新年だ。

 

時節の切れ目とは偉大なもので、それがいかに必然性に欠けていようが、何かを始めたり終わったりするきっかけになるものだ。正月なる人工的なパッケージの記号的な慶びを忌避して、極力おめでとうもよろしくも言わず、努めて普段通りに自室に引きこもっているこのわたしですらやはり、やればできることを実際に始めることへとカレンダーのおよぼす絶大な効力には畏敬の念を欠かせない。それを証拠に、わたしも今日、さんざん作ろうと思っては放置していた学会発表用のスライドをついに作り始めた。

 

思い立ったが吉日とはよく言ったもので、なにかを始めるための理由付けの機会はそう頻繁には訪れない。理屈の上ではもちろん始める日付に理由など必要ないのだが、そのゲーム理論が如き合理的な意見は、人間に感情なるものの存在することをまるきり無視していて、そして人間の誤った観測と人間への過剰な信頼が故に、結果として理性的でも合理的でもない。

 

なるほど誰かが年明けと同時に何事かを始めることを、これ見よがしに揶揄するのは簡単だろう。奴らは始めるという理性的な判断力を、文字通り正しい月と書くこの特定の時期にしか発揮できぬ、怠惰で可哀そうな種族なのだと。だがその揶揄の使い手のほうだって、理性と行動が一致し常にすべてを最適なタイミングで始められる合理主義者だということはまずありえない。それどころかはんたいに、彼らはその揶揄を彼ら自身に向け、その冷笑の当然の帰結として、絶大なる暦の実行力をもってしてすら、何事をも始めぬという非合理の退廃的な積み重ねから脱せなくなっている。

 

とはいえ、地球の公転が人為的なチェックポイントに達したというだけの事実に、あまりに多くを要求するのも酷だろう。元旦とは改まった目標のシノニムだが、元旦だからという理由だけで立てた目標など、地球が太陽の周りをもう半回転する間に平衡を失い、次に戻ってきた時にはすでに、太陽系を脱出して忘れ去られている。換言すれば、節目とは真っ白なカンバスに描く最初の一筆ではなく、実行という車を走らせるための、最後のアクセルの一踏みでなければならないのだ。

 

さて、いまのわたしにはスライドを作る以外の喫緊の用事はないから、年号の改まるこの比較的大きな契機を、わたしは泣けども笑えども十日後に終焉を迎えるプロジェクトに浪費することになる。元日の清純なイメージと比べて、それは不釣り合いに下世話だ。だが、いまさら何を言っても始まらない。なにせもう、その切れ目は過ぎ去ってしまったのだから。