複雑さと独自性

世界という機構は単純に巨大であるがゆえに、わたしの思いついたアイデアは、すでにほかの誰かが考え、実行に移している。仮にわたしの脳がさえわたっており、とても陳腐とは呼べぬはずの発想をしたところで、七十何億という暴力的な地球人口による統計的な普遍性は、わたしの異常性あるいは特殊性に基づくアイデアの生起確率を単に、定量的に凌駕する。もっとも、かりに同一の思想は一言一句変わらぬことばで表されるものだというふうに既出性の基準をいくらでも厳しくすれば、たしかに確率はいつかは母数の壁を越えられるだろう。ありうる思想の個数とは、思想を示すパラメータの個数に関する指数関数の領域に属し、そしていくら人類がネズミ算式に増えたところで、パラメータの暴力には抗えないからだ。

 

とはいえ、通常われわれは、すべての発想が異なるとは考えない。厳密になにを同一と見做すかについて明確な基準はないものの、われわれの頭脳は、異なることばで表されるふたつの物事を同一視できるだけの抽象性を兼ね備えている。ひとつのパラメータを変更しただけのふたつの定理は、それが本質的に重要なパラメータでない限りにおいて、同一の定理だ。シュレディンガーの猫の示唆するものは、その猫が黒猫か三毛猫かに依存しないし、およそ生命のあり毒殺できるものなら、犬にもカブトムシにも代わりは務まる。The Interviews と ask.fm と質問箱は、細かいインターフェイスの違いは確かにあるものの、同じサービスと呼んで差し支えない。古典文学の登場人物の名前だけを現代風に置き換えたものは、新作でも剽窃でもなく、単なる盗作だ。

 

だからといってわれわれは、指数関数の爆発力を完全には無視できないだろう。誰かが一から書いた十万字の物語は現実的には既出になりえないが、だからといって、それはあらゆる母数の暴力をも凌駕するほどの特異な才能が筆者に宿っていることを意味しない。長大なものがオリジナルなのは、その長大さそのものによるシャノン情報量の増分が、なにかとなにかを同一視させる人間の抽象性を超えてゆくからに過ぎず、しこうしてそんな領域で、唯一性に価値はないのだ。

 

科学の徒を続けてきたせいか、わたしは単純かつオリジナルなものに価値を覚える。単純なものの母数は小さく、オリジナルになりにくいから、その評価基準は上記の意味で理にかなっている。しかしながらわたしは、物語という複雑性の中にもまた価値を覚える。それがまた別の評価基準によるものなのか、それとも幾重もの抽象化によってオリジナリティの評価に帰着しているだけなのかは、まだよくわからない。