刹那の中の巨大性

すべてを記憶するのが現実的でない以上、われわれが見たなにかを記憶し、少しでも有用な知識や教訓を取り出そうとするならば、われわれはことばというテクニックを用いて、物事の本質を短くまとめあげる必要がある。あるいは景色や感情を、それを見て誰かが作ったことばと同時に摂取して、もっともしっくりくるものを選び抜き、記録しておく必要があるだろう。われわれの記憶とは信用ならぬもので、いくらその不可逆圧縮がかけられた瞬間に自らの視点を歪め、現実の光景を耐えがたく損壊してしまうとしても、それでもまだ現実を現実のまま摂取するよりは、われわれの中にはいくばくかの現実の残滓が保存されることになる。

 

その意味で巨大な情報は、長期的には、巨大性じたいをもって無意味である。雄大な自然も、長大な小説も、四管編成のオーケストラも、一度記憶に格納され、一定のシャノン的情報量を持つテキストへと昇華されたならば、それらが記憶の中で果たす役割は、最初からテキストを摂取した場合と大差ない。たしかに高い解像度の物事は、摂取されるその瞬間において、テキストよりはるかに大きな感動をもたらすだろう。だが感動が成立するのはあくまで刹那性の文脈の中だけであり、十分な時間の経過した後には、物量の訴求力は消え去り、せいぜい無機質なサマリーテキストに「わたしはこれを体験した」「その時は感動した」の二文しめて数バイトをただ追加するだけに落ち着くだろう。

 

さてでは、巨大性の価値とは何だろうか。テキスト的記憶の中では無価値であるにもかかわらず、世の中は巨大なコンテンツであふれかえっている。しかもそれは、物理学や生物学の法則に莫大であることを運命づけられている現実という題材にかぎらず、人間がわざわざ手作りした、絵画や音楽や文章にも当てはまる性質なのだ。巨大と冗長が同義で、そしてものごとを圧縮する最低限の能力をわれわれが持ち合わせているならば、どうしてわれわれは労力と時間を費やして巨大なものを作り出すのだろう? 単位を欲する学生に課された、ページ数下限付きの下世話なレポート課題以外の理由で?

 

無限長の時間が答えを見出さぬ以上、その問いへの論理的帰結は、刹那性の中にしかありえないだろう。人間個体という有限性は、断じて時間極限における収束を観測しない。人間は記憶と学習を通じて自らの最終形を高めることではなく、いま現在、それぞれの瞬間を体験することを是とする。たとえ作品の残滓が、いずれは自分からすべて消失してしまうとしても、すくなくともしばらくの間、われわれは残り香を嗅ぐことができる。そして人間にとっては、しばらくとは十分な期間だろう。なぜなら、そのしばらくを積み重ねるうちに、われわれは寿命を迎えるのだから。