競技研究者の肖像

良き論文とはすなわち通る論文であり、ひとたび悪しき論文を書けば、われわれはメールボックス内の "We regret" の検索結果を、さらに積み上げ続けるための不毛な作業に追われることになる。研究とは論文を通す競技であって、無事に Accept の栄誉に浴した論文の点数は、その会議の持つパラメータを用いて厳粛に、明快に評価される。それぞれの会議にはベストペーパーだとか言ったいくつかの称号が設けられており、それらは点数評価に、微細かつ重厚なさらなるコントラストを与えている。

 

世の中で唯一不変なものは勝ち負けであるからして、数十ページにわたる奇怪な文字列を公平に評価するその世界規模のシステムは、研究が研究でありつづけるための生命線だ。会議の席というパイは限られており、そして研究というゲームは、パイが限られるからこそゲームとして成立する。われわれが求めるものはただひとつ、that 以下の内容を告げるためのことばとして後悔ではなく安堵を拝受することであり、研究に真摯であるならば、それ以外の、点数にならない自己満足を求めてはならない。

 

にもかかわらず、研究はしばしば創造的な営みとみなされる。そしてある意味では、そのお花畑な夢想も、あながち間違いとは言い切れない。フィギュアスケートが競技でありながらそれでも芸術性を捨て切らないように、アクセプトの文字を受領するために計算し尽くされた怪文書たる論文だって、それでも一応、鑑賞は可能だ。いやむしろ、どうにか見るに堪えるものに高得点がつくように査読システムは作られている、とでも言うべきだろうか。

 

研究は芸術として中途半端だ。科学的正当性と呪術的作法にがんじがらめになったそれが、われわれの創造意欲を満足させることは決してない。われわれのちっぽけな、まったく有限の創造性すら、研究は碌に満足させること能わず、しこうしてわれわれは絵や小説に、より直接的な創造性のはけ口を求める。競技としての研究が、たとえ見るに堪えないものにまで落ちぶれたとして、それでもわたしは研究が競技でなくなる日を望まない。ちょうど勝敗の絡まないスケートを、完全なる芸術としての美しき氷上の舞踊を、ほとんど誰も見ようとしないのと同じ理由で。

 

現在の姿だけを切り取って天秤にかける暴力的な刹那性こそが勝負の本質であるからして、目標たる一通の英文メールが到着したその瞬間、すべての研究はゴールを迎える。われわれはその瞬間に解放され、出版だとか発表だとかいった儀式はすべて、勝利の酩酊を際立たせる余興だ。その学術的儀式の価値は、勝利そのものの価値に比べればまったく些細だろう。勝負事の喜びは、あくまで勝利の瞬間にこそあるのだから。