本質の覆い方

自然科学とは捨象の賜物であり、その徒であるわれわれは常に、物事の本質たる抽象のみに集中することを是としている。対象が科学であるかによらず、物事の表層の具体性のカバーをわれわれは取り外し、その可能な限りの反復を経てなお、最後に残るものが何かを見極めようとする――そしてもし、玉ねぎの皮をむくが如きその作業がすべてを削ってしまえば、それはわれわれのやり方がまずかったか、あるいはそもそも、その物事じたいが空虚な非本質に過ぎなかった、ということになる。

 

たいていの場合、具体を剥がしきった先には陳腐な結論が座している。否、本質なるものは貴重で、許されるレパートリーも少ないのだから、ひとつひとつの事象ごとに、そうやすやすと固有の本質が存在されては困るのだ。まるきりオリジナルな二つの物語を丸裸にした結果、じつはそれらの最奥には共通して友情なり愛なりが鎮座ましましていました、などということはよくある話だし、だからこそ本質のみを掲げ、それらを同一だと吹聴するのはまるで馬鹿げている。自然科学者はそういう共通性をこよなく愛し、たとえばりんごが落ちるのと星々が廻るのを同一の方程式で説明することに無上の喜びを感じているが、だからといって、りんごが落ちることと星々が廻ることが全く同一の事象である、とまでは言わないだろう。

 

だからこそ、物事を特徴づけるのは本質という心臓あるいは脳ではなく、それを塗り固める筋肉であり、皮であると言えるだろう。身近なすべてを説明できるはずの運動方程式は、しかしながら、いくら見つめたところで、力が質量と加速度の積である以上の情報をくれはしない。万物を表す数式は数式以外の何物でもなく、食物連鎖の法則はどの種がどの種を食べるのかを規定せず、愛しているということばは、あくまで愛という記号でしかない。本質の覆いは完全なる具体かもしれないし、あるいは別の、少しだけ個別な抽象かもしれないが、どちらにせよその覆いをもってして初めて、本質は本質的な価値を持つ。

 

自然科学の徒であるわれわれは、高度に理想化された理論と実験を通して、完全なる具体の階層にまで昇ることなしに、ある程度の抽象をそのまま理解し、価値を感じられるように変化してきた。現実という完全な具体を、それがもっとも身近なものだったはずなのにもかかわらず、われわれは冗長すぎてわかりにくいとすら非難するようになった。それゆえもしわれわれが、われわれの認知の世界になにかを作るとすれば、われわれが気にすべきは、どの抽象を選択するかではなく、その抽象をどの素材で、どのレベルまで覆ってやるかだろう。本質そのものに価値はなくとも、それでもわれわれは、本質に近いなにかを求める傾向にあるのだから。