全ての思想を否定する

現代において、個人の思想は不可侵だ。それが誰かを侵害し、傷つけたりしないかぎりは、いかなる思想も尊重される。思想が思想でしかない限りは、ひとの思想は自由だ。

 

そして原則的に、すべての思想は対等だ。だから、どんなに突拍子もない見解も、どんなに身も蓋もないことばも、建前のうえでは、一般常識とまったく同じだけの価値を持つことになっている。

 

たとえば、スパゲッティモンスター教。キリスト教にもとづく学校教育を皮肉る目的で設けられたその教団は、それでも建前上は、キリスト教と同じだけの価値を持っている。建前に目的は関係ないからだ。宗教のかたちをしていて、そして信仰をじっさいに公言できる以上、それはじっさいに宗教なのだ。

 

そしてある意味、思想の対等性とは、多様性を認めることだと言えるだろう。どんな思想も、多様性の名のもとにひとしく尊重される。それがどんな皮肉や、ご都合主義や、野次馬根性に基づいたものであっても。

 

そしてもちろん、そんなものは屁理屈だ。

 

じっさいのところ、思想には価値の違いがある。いやむしろ、あるべきだ。もしすべての思想が平等であれば、だれかの咄嗟の屁理屈と、だれかが本気で信奉しているものが同じ価値だということになってしまう。そしてそんなことでは、まともに世の中は回らない。

 

だから、思想の価値を峻別するのは、きわめて常識的な態度だ。だがそこには、きわめて聞こえの悪い言い換えが成立するだろう。すなわち常識とは、多様性の否定なのだと。

 

さて、わたしは本来、すべての思想が等価だという屁理屈を愛している。世の中には、へんてこな多様性に従ってへんてこになって欲しいと思っている。というのも、わたしは自分だけの思想を信奉するのが好きだし、その態度が認められていたほうが都合がいいのだ。多様性の名のもとに、屁理屈が認められたほうが。

 

それでもやはり、わたしの具体的な思想が屁理屈なことにかわりはない。そしてまた、多様性を盾にそれを認めよと言うのも依然として屁理屈だ。さらには、すべての思想を等価に扱えという意味で多様性ということばをつかうことすら、すでに屁理屈だろう。

 

だがそれでも、わたしはわたしの思想を育てたい。そしてその場合、わたしに残された道はひとつだ。身も蓋もなく、不遜で、暴力的な手段。

 

そう。わたしの屁理屈が道理に格上げできないのならば、道理のほうを屁理屈へと引きずりおろしてしまえ。

 

まったく敬意に欠ける態度だ。その態度こそ多様性に逆行し、世の中全てを馬鹿にしている。だが、すくなくとも理にかなっているという意味では、意外といい態度なのかもしれない。つまるところ、どの道理にも納得しないことじたいは、べつに屁理屈ではないのだ。