語られる宇宙、眺められる自己

わたしとは何者かという問いに答えを出せるほど人生は長くないし、仮に不老不死の存在が天地開闢以来の歴史を生き続けたところで、やはりその問いは未解決で、棚に上げられ、忘れられたまま世界は終焉に至るだろう。さながらわたし自身がこの宇宙で最高位の存在であるかの如く、自分自身に対する誰何は、宇宙そのものへの誰何すら凌駕し、我が人生インクルーズ我が宇宙の人生における究極の疑問として、わたしの眼前に厳然として立ちはだかっている。

 

困難は分割せよとはよく言ったものだが、自らの完全解析という課題は壮大過ぎて、考えうる限り細かく切り刻み、矮小化し、はるかに個別の問題に帰着してなお、てんでこの宇宙に収まる気配など見せやしない。世の就活生とやらは、自己分析と題する無謀な挑戦により、一定数は実際に宇宙の仕組み程度のことは解き明かしているのかもしれないが、その先の暗闇を一目覗き見た瞬間、みずからとみずからの間の無限の隔たりに例外なく発狂し、跡形もなく消え失せてしまうのだ。

 

さて、このスモールワールドがわたしにできることは多くはない。まるで解析学のように暴力的な帰着だが、わたしが宇宙を内包する以上、宇宙の問題とは突き詰めればわたしの問題である。換言すれば、宇宙とはわたしの問題を具現化するための、精巧な舞台装置に過ぎないのだ。

 

もちろん宇宙なしでもわたしは全く同じように存在するのだから、かくのごとき些細で戯画的な演出など、わたしには不要なようにも思える。しかしながらわたしを見るわたしにとっては、そのフェイクは些細でも戯画的でもない。わたしはスポットライトの中の宇宙という舞台を現実だと錯覚し、世相という子供だましの三次元動画の行く末を憂慮し、そしてそれこそ、わたしを見るわたしが至ることのできる、地表と呼ぶ無知とほとんど区別のつかない最高到達点なのだ。

 

であるがゆえに、物語は重要だ。無数に存在するどの宇宙もあくまでわたしの一側面の切り取りに過ぎないが、不都合なことに、わたしを見るわたしはそのたったひとつに囚われ、まるで深紅の暖簾の向こう側を覗かんとする男子中学生のごとく、わたしを同じ側から眺めつづけている。しこうして寛大なるわたしは、わたしのために新たな宇宙を創造し、たとえば露天風呂の外の日の落ちた茂みの中などに、わたしを転送してやるのだ。わたしの矮小さは決して、求める桃源郷に立ち入ることを能わないが、それでも見るわたしは見られるわたしの、まるきり別人のような姿を垣間見ることができるだろう。