加害者の味方

上り坂と下り坂が同じだけ存在するのと同じように、加害と被害は量的な均衡関係にある。にもかかわらず、あなたは加害者か被害者かと世間に向けてアンケートを取れば、加害とは比べ物にならない量の被害が報告される……というのは、もはや周知の事実だろう。

 

人間が被害を過大評価する生き物な以上、これといった被害者性の思い浮かばぬわたしは、きっと極悪非道の加害者なのだろう。加害そのものに覚えがあるかどうかとは関係なく、単に被害の覚えがないことを理由に。とはいえ加害の正体を知らぬ以上、わたしは反省も修正もする気はないし、そもそもその方法もない。一番手っ取り早いのは、適当な被害者性をでっちあげてバランスをとることだが、あいにくそんな嘘をついてまで、わたしは加害者を辞したくもない。

 

その手のでっちあげ行為は、しばしば称賛の対象となる。要するにその行為は、全ての発言を正当化する被害者の特権を、自分が被害を受けることなしに獲得してやろうという算段に過ぎないのだけれども、不思議なことに、そのただ乗り行為そのものが「被害者に寄り添った態度」として正当化されるのだ。被害者の味方イコール被害者イコール正義。黙秘イコール被害者の敵イコール悪。刑事さん、誰がその図式を描きたがると思います? それを描いて得をする人間に決まっているでしょう。

 

さて、話を戻そう。被害者性はそれほどまでに手軽に、ノーリスクで発言力をもたらしてくれる。それなのに、わたしはなぜ、身に覚えのない罪の存在を無理やりに仮定して、加害者を演じようとし続けるのだろうか?

 

おそらくその理由は、加害者にしか許されぬ態度が存在すると、わたしが信じているからだろう。

 

さて、ではそれは何か。被害者に対して唯一許される加害者の態度とは、ふんぞり返る被害者の靴を舐め続けることだけだ。加害者は被害者に反論できない、不平を言えない。論理的誤謬や、被害者の加害者性を指摘してはいけない。そもそも、加害者は論理的であってはならない――論理的ならば、そもそも被害者になるはずだからだ。被害者はすべてを語れる。加害者はなにも語れない。加害―被害の関係の中で、その非対称性は自明で、絶対だ。

 

このように、加害者本人は完全に不自由だ。その不自由に、わたしは耐えられないだろう。だが、わたしが加害者本人ではなく、加害者性にただ乗りしている、もといさせられているだけの人間だとしたら?

 

わたしに無関係な被害にわたしは興味ない。そして、加害―被害の文脈で、無関心とは悪だ。それならば、わたしは悪でいよう。被害者の味方がわたしを敵視し、そして敵の敵が味方であるならば、わたしは喜んで加害者の味方をしようじゃないか。

 

被害者へ向けて、わたしは発言できない。ロジックは被害者の支配領域にあり、そして、わたしはエモーションが苦手だ。そして、言い換えれば、わたしは発言しなくてよいとも呼べるその不自由こそが、わたしの取りたい態度ということだろう。