研究者の自己認識法 ③

研究者の存在理由を語るうえで、芸術家とはいちばん納得のいく比喩であった。しかしながら自分自身に目を向けてみれば、わたしにはとても、自身を芸術家などとは呼ぶ気がしない。

 

理由のひとつはもちろん、芸術家という職業に対する広く共有された不信感だ。あなたもきっとわかってくれると思うが、芸術家を気取る人間はとかく鼻につくのだ。下宿にこもって働きもせず、借金を滞納しながら飲み歩き、やたら高価な道具をそろえては、自分ほどの才能にはこれくらいのアイテムが必要なのだと言って悦に入る。なら家賃を払ってくださいよとまっとうな糾弾を受ければ、「わたしの頭の中にはきみには想像もつかないほどの貴重な世界が宿っているのだ」とかなんとかいって、自分の怠惰を棚に上げて寝転がる。そんなステレオタイプな芸術家気取りが本当に存在するのかどうかはさておき、そしてわたしがこれに類することを本当にしていないのかどうかもさておき、わたしとてさすがに、わたしはこんな屑人間ではないとは思っている。

 

しかしながら、それは一番の理由ではない。いわれのない軽蔑を受けるのを嫌って、みずからをみずからに対して正当化するせっかくチャンスを逃すほど、わたしはひとの目を気にしてはいないつもりだ。わたしが嫌うのは、わたしたちが芸術家に向けるもうひとつの感情、すなわち敬意とか畏怖とかそういうものなのだ。

 

敬意。そう。芸術家とは、尊敬される存在なのだ。独自の感性を持つものとして。あるいは、生活苦にもめげず自分の「好き」を貫き通す、孤独にして至高の表現者として。

 

芸術家たるもの、自分の価値基準には自信を持たねばならない。自分の価値基準こそが世界の中でもっとも正当であると信じ込んでいなければならない。自分が素晴らしいと信じるものは真に素晴らしいもので、かりに評価されないのであれば、間違っているのは世界のほうなのだと言い切らねばならない。納得しないものを世に送り出すようなことがあってはならない。納得しないだろうと分かり切っているものを、わざわざ作り始めてはならない。自分の思う芸術性というものに、芸術家は徹頭徹尾、執着しつづけなければならない!

 

実際の芸術家が、ほんとうにそういう存在であるのかはわからない。しかしながら芸術家を僭称するのであれば、わたしたちはそういう芸術家的な理想に忠実でなければならないだろう。それが最低限の礼儀というものだ。

 

そしてご想像の通り、わたしにはそういう礼儀をわきまえる覚悟がない。わたしに確固たる理想はなく、目の前の解ける問題を解いているだけで、そしてそのことを特に、心苦しくも思わない。

 

では結局、かりに研究者が芸術家だとしても、わたし自身は何に喩えられるのだろうか。芸術家気取りか? それとも社会に寄生する、単なる穀潰しか?

 

いいや、おそらく。喩えねばならぬという考えがそもそも間違いなのだ。わたしはわたしの行いを、無条件に肯定しなければならない。芸術家でも芸術家気取りでもない、単なる図々しい役立たずとして。

 

そう。月並みな言い方だが、わたしは結局、わたしでしかないのだ。