逆説の宇宙

宇宙とは果てしなく広がる未到地である。わたしたちが住んでいるこの地球、じゅうぶんに広いはずのこの地球がまるでちっぽけに見えてしまうだけの規模を宇宙は持っていて、そしてそのほとんどを、地球人はけっして見ることがない。人類史あるいは地球史上のすべてのできごとの、そのもっとも重要なものでさえ、宇宙全体の歴史の中で見ればほとんど誤差のようなものだ。

 

宇宙はわたしたちの存在を、否応なく相対化する。残酷なほど容赦なく、わたしたちのローカルさを突きつける。昨世紀になってようやく人類は宇宙へと足掛かりを築いたが、それとて宇宙の立場に立てばまったく些末なことに過ぎない。あの運命の年、アポロ十一号から降り立ったアームストロング船長はあの、運命の大地を踏みしめた。そこにはたしかに感動があったかもしれない。けれどもそれはあくまで、地球の重力圏をけっして逃れえない天体の表面、月という長年の属州の土地にすぎなかったわけだ。

 

宇宙はしかし、誰もが夢を向ける場所でもある。けっして届かないと知っているのに、その先に行くことを想像する。けっして答えなど得られないと知っているのに、この果てしない荒漠のどこかにほかの知的生命が存在するという奇跡をわたしたちは求め続ける。

 

いや。おそらく、実態は逆だ。けっして届かないがゆえに、わたしたちは好き放題、夢を見ることができるのだ。

 

太陽系からすら出たことがないわりには、わたしたちは宇宙をよく知っている。銀河が宇宙の構成要素であり、そのなかに数えきれないほどの恒星があることを知っている。百三十八億年前に生きていたわけではないのに、ビッグバンを知っている。

 

光速にすこしでも近いと呼べる速度で、ひとは移動したことがない。けれどもわたしたちは、わたしたちの出せる限界の速度を知っている。何百光年か離れた場所へと、生きているうちに行って帰ってきたとして、その間に地球上でどれだけの時間が経過しているかを知っている。どこかの星の宇宙人に情報を送って、帰ってくるまでの時間の理論値を知っている。

 

そしてそうした知識のすべてが逆説的に、わたしたちの矮小性を突き付けてくる。人類が科学を、とくに理論物理学を発展させれば発展させるほど、宇宙探索の不可能性は明確に立ち現れてくる。アインシュタイン特殊相対性理論を展開してさえいなければ、わたしたちはまだ、超光速航行への期待を持ち続けていられたのかもしれないのに。

 

そして面白いことに、これまた逆説的に、不可能性は夢へと相成るわけだ。わたしたちの自由な宇宙観、あらゆることへの野放図な夢想は、きっとこんな二段階の逆説から来ている。