研究の評価基準

理論研究というものは、折に触れてその意義を問われがちだ。役に立たない研究を、やる必要はあるのか。金にならない研究に、つける予算はあるのか。短絡的で、刹那的で、そして至極まっとうなその手の問いは、理論の研究者であるわたしたちを常に苦しめ続ける。

 

それらの問いは必ずしも、アカデミアの外部から投げかけられるとは限らない。というより、外部からの文句はそう気にならない。外部の人間にとって、およそ理論というものはあまりに難解で、彼らがわたしたちのやっている内容を理解していることはほとんどない。しかるに彼らは、本質的な批判をしてこない。

 

外部からの通りいっぺんの文句ならば、わたしたちは対応するすべを心得ている。文句のレパートリーが少ないから、自然と慣れるのだ。

 

対応の方針には二段階ある。基本的には、その手の話題から距離を置くこと。必要以上に出しゃばって権利意識をひけらかりたり、境遇を嘆いたりしないこと。あるいは、俗世や金にはまったく興味ありませんというふりをして、このひとに聞いても無駄だと思わせること。要するにもろもろの影に隠れて、批判しようと思わせなければいいのだ。

 

それでも好奇心旺盛な少数は、影の奥からわたしたちを見つけだしてくる。そういう相手には、数百年後に役に立つかもしれない、などといった適当なハッタリをかませばよい。自分自身そう信じていなかったとしても、相手だってどうせ、具体的な内容は理解できないのだ。ほとんどの相手は、釈然としない表情を浮かべながら立ち去ってくれる。

 

それでいいのだ。世の中は、そういうあいまいなバランスで回っている。

 

だが相手が同業者となると、話はまるで違う。難解なはずの理論を、同業者はあろうことか理解してしまうのだ。ハッタリでその目を欺くのは難しい。目立たないようにする、という策は依然として有効ではあるが、それとてわたしたちが、成果を発表したり申請書を書いたりしなければの話だ。

 

というわけで、わたしたちの選択肢はひとつだ。同業者から見て、意義のある研究をする。自分では意義なんて感じていなくても、とにかくそう見えるようにする。

 

そして。これはこれまで何度も書いてきたことだが、問題はわたし個人が、研究の意義なるものをまったく理解できないことだ。

 

わたしたちのやっている研究はまったくの無意味だ、とわたしは固く信じている。だが少なくない数の研究者は、そう信じていない。彼らは意義のある研究と意義のない研究を峻別できる。そしてその基準は、彼ら自身の内部にある。他の研究者が気に入りそうかどうかといった、外部的な評価基準ではなく。

 

では、どうしてアプリオリに、そんな基準を持つことができるのだろうか。わたしと彼らとの違いとは、果たして何なのか。

 

それはおそらく、夢を見る能力、とでも呼べるものだろう。明日以降、気が向いたらその点について、書いていくことにしよう。