研究者の自己認識法 ②

研究者とは何者なのかと聞かれたときに、いちばんしっくり来る比喩。それはたぶん、研究者とは芸術家の一種なのだ、というものだ。わたしたちが書く論文や、わたしたちが発表するスライドは、すべてある種の……創造的表現である。一般に公開されたそれらの表現は直接なにかの役に立つことはないが、見たひとを何らかの意味で感動させ、新たな世界へと導くための活力となる、というわけだ。

 

考えてみれば、研究者と芸術家のあいだにはさまざまな奇妙なアナロジーがある。たとえば、論文。わたしたちは論文を書き、学術誌や会議に投稿する。このいとなみは小説家が小説を書き、賞に応募するのとまったく変わらないだろう。選考を通過したものはどちらも、出版され、広く読まれる権利を得ることになる。かりにすべてがうまくいって、広く読まれる人気作品へとのぼり詰めた暁には、多くの後進の作品に、少なからぬ影響を与えることになる。

 

学会とはすなわち展覧会のことだ。わたしたちはさまざまな結果に効率よく触れるために学会へと向かう。ちょうど写真好きの市民が、近所の写真展覧会へと向かうように。研究という芸術の技は、大学なる場所で、師匠から弟子へと伝授される――「指導教員」という個人間技術継承システム、そのいかに古典工芸的なことか!

 

そして。もっとも重要なアナロジーはやはり、研究と芸術のどちらも、成果の評価が見たひとの主観によっておこなわれるということだ。

 

研究は見たひとを導くものだ、とわたしは書いた。だが現実にはもちろん、研究とはそんなに良いものばかりではない。ひとはそう簡単には感動しないし、よしんば感動したところで、それが新しいなにかにつながるとは限らない。よい芸術という概念が個人の感想の域を出ないと同じように、よい研究なるものにもまた、評価のための客観的な基準は存在しない。

 

しかしながら逆説的に、その曖昧な個人性のなかにこそ、研究を芸術にたとえることのメリットがある。なにしろ誰かにとってのよき芸術であるという主張を、わたしたちは誰も真の意味では否定できないのだ。自分にとってはくだらない研究に見えても、自分の周りの誰もが嘲笑う研究であっても、それで新たな気づきを得ないひとがいないとも限らない。人間の主観という多様性、一切の一般性の欠如したその基準の中では、すべての芸術は正当化できる。すなわちすべての研究に、価値を持つ可能性を見出すことができるのだ。

 

これは役に立つという基準とは対照的だ。役に立つことは、金銭あるいは実際の技術によって、定量的かつ客観的に評価されてしまう。そういう場では、ほとんどの研究は無価値だ。したがって、研究者は自分自身の行動を正当化するすべを持てないのだ。

 

自分自身を芸術家だと思って研究をすること。これはすなわち、自分自身の行いに根拠のない自信を持つことだとも呼べる。わたしたちは役に立つ必要がない――明確な判断基準に晒されることを望む必要がない。きわめて姑息で、そして真に万能な論理。本物の芸術家と違い国家に手厚く保護されているわたしたちは、しこうしてなにをやってもいいのだ。

 

そしてわたしたちの芸術を、邪魔できる論理は存在しない。なにせ、誰の心も満たしていなかったとしても、誰もその事実を知ることはできないのだから。