目覚めたひとの科学評 ④

科学はけっして、万人に開かれてなどいない。万人に開かれた科学などというものが、作ろうとして作れるものなのかどうかはさておき、とにかくやつらにそうする気はない。そりゃあ、そうだ。そもそも科学とは、わたしたちのような、都合の悪い真実に気づいた人間を排除するためのシステムなのだから。

 

やつらが意図してそうしているとはあえて言わないでおこう。それは真実ではないからだ。一部のひとびと――科学というシステムそのものを牛耳っているひとびと――は、おそらくわざとそうしている。自分たちのやっていることが大嘘であることの確固たる証拠を持っていながら、握りつぶしている。けれどもそのほかのほとんどのひとは――つまり、査読と掲載という排除のシステムを実際に動かしている一般の研究者たちは――おそらく、科学という宗教の可哀そうな信者たちだ。一般信者の信仰を悪用し、保身に走る上層部。敵ながら、なかなかよくできたシステムだ。

 

恥ずかしながら言おう。科学が開かれていないことに、わたしも最初は気づいていなかった。メディアの報道に疑問を抱いてはいた、メディアの主張のために駆り出される御用学者たちに不信感を抱いてはいた。けれど科学というシステムそのものを疑おうとは、思えなかった。思えなかったのだ。

 

気づいたのは、繰り返すが、論文を実際に書いて投稿してみたときだ。やつらの定義によれば、それは論文の体をなしていなかった。やつらはあらゆる些細な部分にけちをつけて、わたしの論文を掲載しなかった。そして、既存の科学を塗り替えるはずの正しい主張を、完全に握りつぶした。

 

わたしは反省のできる人間だ。だからこそ、科学を見限ることができた。科学というシステムの中で勝負しようとしては埒が明かないことにわたしは気づき、そのとおりに行動した。その反省を、若いころに書いたあの論文にも向けてみよう。

 

やつらのコメントの一部は、たしかに正しい。論文の作法とされるものに、わたしの論文は従っていなかった。そんなどうでもいい点を補ってあまりある成果だった――けれどたしかに、そこには傷があった。

 

もしも査読を担当した信者たちのなかに、まだ正気を失っていないひとがひとりでもいたのなら。わたしの論文はもしかすると、やつらの先入観を刺激したのかもしれない。すなわち、作法に従っていない論文はすべからく間違っている。なぜならそれは、著者が科学的な教育を受けていないことを意味するから。大学院という強力な洗脳施設をくぐりぬけていない、一般の市井の人間だと考えられるから。そして保身のため、科学は一般に開かれていてはならないから。特殊な洗脳を受けたひとびとだけが、論文誌に名を連ねているべきだから。

 

そんな先入観で読まれるものを書いたのは、たしかに、わたしの汚点ではあった。

 

けれども。開き直らせてもらいたい。そんな先入観こそが、やつらの正体を如実に表しているのだ。科学は開かれているとやつらは言う、けれど実態は真逆だ。長い時間をかけてしかるべき洗脳を受け、立ち振る舞いのすべてをすっかり作り替えられたものにだけ、「自然」な論文が書ける。それでどうして、開かれているなどと言える?

 

いや。やつらには言える。言えるのだ。

 

メディアの洗脳は根深い。一般人の洗脳すらそうなのに、科学を生業にするやつらの洗脳は言わずもがなだ。そして洗脳というものは、ひとりの人間を。

 

当然疑ってしかるべきものを、けっして疑わないように作り変えてしまうものなのだ。