Data Does Not Exist

いまとなっては下火の考え方だが、十年ほど前には、データへの課金がいかにくだらないことなのかが真剣に議論されていた。当時の論調によれば、たとえばソーシャル・ゲームへの課金でどんなにたくさんのアイテムを手に入れても、サービスが終わってしまえば何ものこらない、とのことだった。

 

もちろん、この批判は的外れだった。わたしたちが買っているのは、データそのものではなく、データから得られる経験だ。批判していた当人でさえも、終わってしまった経験には価値がないなどとは考えないだろう。たとえるなら、終われば消えるからという批判はちょうど、海外旅行の飛行機代を、行ってもどうせ戻ってくるのだから無駄だと切り捨てるようなものだ。

 

だが重要なのは、論拠が的外れだということではなく、批判があったという事実のほうだ。一般論をいえば、ひとがなにかを批判するときは、批判する根拠があるから批判するわけではない。そのひとが反感をおぼえたなにかを批判するために、批判する根拠をつくりだすのだ。

 

だから、批判の論拠がおかしいからといって、批判されるに値しないことにはならない。論拠がおかしくても、それは単に、批判するひとの説明がへたくそだっただけだ。

 

ではなぜ、データを買うことに、多くのひとが反感を覚えたのだろうか。わたしはこれを、実在性への信仰だと思う。つまるところ多くのひとが、旅行や食べ物などの消費財と違って、データは存在しないと考えたということだ。

 

存在するとはどういうことか、これは哲学上の難問だ。わたしは哲学には明るくないから、その問いにこたえようとは試みないことにしよう。だがたとえ、哲学がこたえを出さなくても、われわれはみな自分なりに、存在するという概念がなんなのかを感じ取っている。

 

わたし個人の話をしよう。わたしは、世の中のすべてはしょせん、わたしの認識の中にしかないと考えている。世の中など存在せず、したがって世の中のあらゆるものは存在せず、かわりにわたしが世の中という夢を見ているだけだ、と。

 

だからわたしは、どんなものに対しても、それを存在しないと感じているべきだ。しかしその義務とはまったく別に、わたしの中にも、存在すると感じるものと存在しないと感じるもののあいだの線引きがある。

 

わたしはデータに、物理的実体のあるなにかと同等の存在性を感じられる。たとえばわたしは電子書籍に、紙の本に対するのとおなじ種類の親近感を覚える。だがわたしが親しみを覚えられるデータは、じつのところおそらく、わたしが「触れられる」データだけだ。

 

わたしにとって、データに触れるとは、エクスプローラのアイコンをダブルクリックしてファイルを開くことであり、ウェブ上のリンクを経由してファイルにたどり着くことだ。そうしてはじめて、わたしはそのデータの存在を感じられる。だが、そうやって開くことの想定されていないデータもまた、世の中にはある。

 

もちろんわたしは、わたしのこの感覚が無根拠な、くだらないものだとはわかっている。エクスプローラから開いたファイルが存在し、コマンドラインから開いたファイルは存在しないなどということはありえない。だいいち、どんなファイルも結局は 0 と 1 の羅列であって、それを適切に開けるとは、単にそれを開くためのソフトウェアがパソコンに入っているということにすぎないのだ。

 

だからわたしは、この感覚を正当化するつもりはないし、わたしが存在を感じられる手段でファイルを渡してくれと誰かに強要するつもりもない。だがしかし、わたしはこれからも、存在を感じられない手段でデータを操作することに抵抗を覚え続けるのだろう。だからこそわたしは、わたしがその抵抗を正当化して、新しいなにかを拒否しないように、たえず目を配っておく必要がある。