中途半端なコミュニケーション

世の中はどうやらわたしを中心に回っているようで、最近、ほぼすべてが家の中で済むようになった。パジャマ以外の服を着ることすら億劫な、超の付くものぐさなわたしにとっては、手放しですばらしいことである。

 

家族以外と話すのは、すべてオンラインだ。そして、この世の中になってからというもの、ひとと話す機会はむしろ増えたような気がする。引きこもり以外は孤独に耐えられないのか、あるいは通勤通学がなくなって時間が浮いたのか、とにかく深夜のボイスチャットは連日知人たちでにぎわっている。

 

さて、インターネットの向こうの相手と話すのは基本的に良いものだが、ひとつだけ嫌いなものがある。ふだんの雑談やゲームでは発生しないが、すこしフォーマルな場では毎度のように発生するイベント。そこにあるだけで、とたんに緊張感の増すしきたり。そう、顔出しである。世の中には、どうやら相手の顔が見えないと円滑にコミュニケーションが取れないと感じる人が一定数いるようで、そのもどかしさらしきものがわたしに飛び火しているようなのだ。わたしにはよくわからないその感覚は、わたしの脳内少女に語らせてもよいものだが、話がそれすぎるから今日はやめておこう。

 

さて、わたしは顔出しが嫌いだが、べつに自分の顔を見せることじたいが嫌なわけではない。自分の写真は嫌いではないし、なんなら、自分が話しているあいだは、顔が出ていてもまったく気にならない。たしかに、髭を剃ったり服を着たりするのは面倒だが、それくらいでわざわざ日記を書いたりはしない。

 

考えてみれば、顔出しの会だけが苦手なのは不思議なことである。それはほんらい、対面とボイスチャットの中間にあるはずだ。それなら、わたしは対面での話を毛嫌いしていなければならず、すなわち極度の人見知りでなければならないはずだ。

 

しかしわたしは、たいした人見知りではない。ではいったい、顔出しの何が嫌いなのか。面白い問いだが、しょうじきよくわからない。理由はいくらでも考えられる。たとえば、手持ち無沙汰が嫌いなのかもしれない。見られているかどうかわからない、パノプティコン的な息苦しさなのかもしれない。パソコンの前で無防備にニヤついてはいけないという矛盾が、精神的な負担なのかもしれない。とにかく、会の終わったころにはわたしは疲れ果てて、背中がバキバキになっているのである。

 

考えても答えは出そうにない。それなりに説得力のある説明たちのまわりを、わたしはただ行ったり来たりするだけだ。さて、とりあえず、今日は終わりにしよう。わからないことをとやかく言うべきではないし、それに今日はもう、背中がバキバキなのだ。