合理的非聴講

書いていた論文を提出してから、はや三週間が経った。つぎの進捗は、まだない。

 

研究とは未知の探究だから、思い通りに進まないのは普通のことだ。そういうときは、運が悪かったと思うしかない。だが今回の場合、進まない理由は明白だ。何を隠そう、わたしが何もしていないのだ。

 

わたしの生活を思い出そう。最初の一週間、わたしは提出の余韻に浸りながら、溜めていた作業や手続きを片付けていた。こういうこまごまとした事後処理は、やり始めようと決意するのが一番たいへんだから、いくつやってもたいへんさは同じだ。ちょうどテトリスでブロックを四行まとめて消したときのように、この週には爽快感があった。

 

つぎの一週間、わたしは次のテーマを探そうと思念にふけっていた。もうすこしはっきりと言えば、何か思いつかないかなぁとぼんやりと思いながら、ただツイッターを眺めていた。ふと思い立って一瞬だけ論文を検索しては、気晴らしと称して別の数学の問題を考えたり、Google のトップにある謎のゲームをしたりもした。

 

もちろん、そんなことでテーマが思い浮かぶはずはない。三週間目のわたしも当然、それくらいわかっている。ではどうするか。答えはひとつ、諦めである。無為な生活を無条件に肯定する、泰然とした無我の境地。研究者を志したさい、わたしは平日にも遊ぶかわりに休日にも研究をするライフスタイルを目指した。だが今は違う。平日も遊ぶし、休日には研究しない。

 

さて、平時なら、こんな状態のわたしをやる気にさせてくれる機会がある。学会である。学会では、わたしを発奮させるいろいろな発表が聴ける。すごい結果の発表。結果はすごくないけど、面白そうな問題を扱っている発表。難しくてぜんぜんわからないけど、なんだかそれを学ばなければいけないような気がしてくる発表。

 

あいにくこのご時世、対面での学会はまったくない。オンラインの学会はあるが、あまりモチベーションの足しにはならない。参加するのが気軽すぎて、あんまり全セッションを真面目に聴こうという気が起こらないのだ。そうなれば、合理主義者たるわたしの決断は決まっている――聴く気が起こらないと分かっているなら、そもそも登録しない。モチベーションという非合理的な目的に、合理的な選択が邪魔をする。

 

さて、明日からはそのオンライン学会である。たいていの学会はそもそも参加しないのだが、これは毎年楽しみにしていた学会だから、惰性で参加することにしている。そして、わたしには珍しく、ちゃんとオンライン発表を聴くのだろう。その非合理が私のやる気につながってくれるのかは分からないが、そう信じておくことに損はないだろう。結果は、三日後のわたしが知ることになる。