読書感想文 テッド・チャン『息吹』(余韻)

タイトルの作品はしばらく前に読んだ小説だが、わたしのなかにはいまでもまだその余韻が残っている。それなら、ふたたび感想文を書いてもよいだろう。ネタバレが問題になる作品だとは思わないが、いちおう、空行をはさんでから始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

科学と宗教が対立するわれわれの世界とちがって、『オムファロス』は、科学が神の奇跡の根拠になっている世界を描く。前に書いた通り、わたしにとって作中の世界は、わたしに信仰といういとなみを体感させてくれる世界だった。すなわち、神の存在がきわめて科学的な手段で保証されるのならば、神を信じるにあたっての論理的な障壁はなくなるだろう、ということだ。

 

現実世界の科学にとって、世界は、科学だけで説明されるものでなければならない。だから科学は、世界の説明から神を追い出そうと躍起になっている。神を否定する明確な根拠がない以上、科学が神の不在を明言することはないが、もし根拠があるなら、科学は喜んで神を否定するだろう。科学は奇跡という説明を嫌うから、むしろ、神の不在は、科学をはじめるための前提条件とすら言えるかもしれない。

 

それでも科学は、宗教的価値観すべてと相容れないわけではない。神の存在こそ信じなくとも、わたしは、宗教が神の教えとするものに共鳴し、神が善行だと言っているらしいものを善行だと言うかもしれない。あるいは、神のお告げを聞いたことこそ信じなくとも、わたしは、聖典という史上最高の物語の作者として、預言者を崇拝するかもしれない。神というマークを認めなくとも、おそらく、宗教からは、わたしが良いと思えるなにかを吸収することができるだろう。

 

だから、次のような態度は科学と両立しうる。神がいなくても、神の教えは素晴らしいものだ。神とは、みながよい教えを理解する助けとしてつくられたわかりやすい崇拝の象徴にすぎないから、神なしでも神の教えを受け取れる人にとっては、神は不要である。神の存在性以外の点では、宗教は科学と矛盾しないから、矛盾のない信仰のためのもっとも大きな障壁は、単に神という補助輪をはずしてやるだけ簡単に解消してしまうのだ。

 

作中では、神の存在性こそ確固たるものだが、神のなした仕事には疑いがかかる。その疑いから、主人公の神への気持ちは揺るがされるが、それでも最終的には、主人公は神への態度を再構成し、ふたたび神へと語り掛ける。おなじように、適した態度を見つけられれば、現実世界のわたしもじつは、信仰といういとなみを感じられるのかもしれない。