短編という形式の発見

三日前、わたしは短編を書いた。ふたりの少女の会話のなかで進む話だ。詳細が気になるのなら本編を読んでほしいが、そううまく書けているわけでもないので、あなたがたに読めと強制する道理はないだろう。だからかわりに、ここで前半のあらすじを紹介しよう。

 

登場するふたりの少女は、ふたりとも、じぶんたちがフィクションの中の存在だと知っている。だがそれでも、彼女らはみずからにとって自然な会話をしようと心掛けている。だがふとしたことから彼女たちの話題は、みずからのアンバランスな存在性の話にうつっていき……

 

……とまあ、こんなところだ。続きは本編にある。

 

さて、わたしはこの話をそううまく書けなかったが、どううまく書けなかったかについては昨日書いた。だから、今日はわたしの試みを、べつの方向から振り返ることにしよう。すなわち、どういう経緯でこんなものを書こうと思ったのかの話だ。

 

書こうと思い立ったのは、じっさいに書き始める数十分前のことだ。わたしはいつものように、日記の題材を探してエディタの真っ白とにらめっこしていた。その最中にとつぜん、ひとつのセリフが、奇妙な存在感をもってわたしの頭に浮かんできた。

 

「メタって言うほうがメタなんです~」

 

もちろん、わたしはすぐに、このセリフの元ネタに思い至った。もはや書くまでもないと思うが一応書いておくと、バカと言われた小学生がムキになって言い返すときの、あのことばだ。定型文を機械的に置き換えただけの、取るに足らない一文。だがしかし、この一文には、そんな説明では済まされないほどの奇妙な説得力があった。

 

この説得力の正体を探るため、わたしの頭のバックグラウンドでは、すぐに無意識のプロセスが動き始めた。わたしの頭は、なにごとも勝手に分析し始めるようにできているのだ。「メタって言うほう」とはなにか。「メタって言うほう」は本当にメタなのか。メタだとして、それはなぜか。云々、かんぬん……

 

そしてプロセスたちはすぐに、説得力の正体がそう難しくないことを突き止めた。すなわち、こういうことだ。創作の中ではたまに、登場人物のメタな発言が、べつの登場人物にたしなめられるシーンが出てくる。だが、メタな発言それじたいは、べつに現実世界でも成立するジョークだ。

 

いっぽう、メタだとたしなめるほうはどうか。メタをたしなめるのは、やりすぎると読者が辟易するからだが、現実世界に読者はいないから、たしなめる必要はない。すなわち、メタをたしなめるのは、メタを発言するよりもはるかに、登場人物がみずからのフィクション性に気づいている証拠になる。だから、メタって言うほうがメタなのだ。

 

さて、話を戻そう。ではなぜわたしは、このセリフを普段の形式ではなく、わざわざ会話文の短編のかたちにしようと思ったのか。もちろん、そっちのほうがよさそうだったからだ――まったくただしい説明。裏を返せば、わたしはこのセリフが、ふだんのエッセイ調の文章には向かない、と判断したのだ。

 

では、それはなぜか。これもそう難しくない。このセリフにたいするわたしの説明は、わたしにとって、完璧にただしい。そして、たとえだれかがわたしに反論しようとも、わたしにはまったく受け入れる気がない。なぜならば、そんなことへの意見が一致していなかったところで、わたしも相手も、まったく困ることはないからだ。メタというほうがメタなのはわたしにとって真実で、そして、真実であってまったく不都合はない。

 

だから、もしこれをそのまま文章で語れば、こうなる――「わたしは、メタと言うほうがメタだということに気づきました。理由はこんなところです。これはまぎれもない真実なので、特に批判を受けいれるつもりはありませんし、そもそもそんな必要もないと考えます。もちろん、特に提起する問題とか、そういうものはありません。おしまい」。ただ発見を自慢するだけの、寒気のするほどひとりよがりな文章。そんな文章を、すくなくともそういう形式の文章を、わたしはまったく書きたくはない。

 

さて、会話文は、そんなこだわりをわたしの目からごまかしてくれる媒体だ。わたしはこの発見をそれなりに面白いと思ったから、文章にしたい。だが、いつも通り書いても面白くない。それならばかわりに、登場人物に語らせてしまえばよいではないか。そしてラッキーなことに、こんかいのわたしの発見はそもそも、登場人物が語ることについての話ではないか!

 

さて、そんなわけで、わたしはあらたな表現の選択肢を手に入れたことになる。昨日書いたように、わたしはまだこの表現形態に慣れていないが、すぐに慣れることになるだろう。すくなくとも、そう断言しておいて損はないはずだ。

 

というわけでたぶんこれからも、日記調にできない思い付きがそのまま短編になるはずだ。わたしはそれなりの頻度で、そういう短編を書くだろう。日記にならない思い付きは、ここでぱっと例を挙げられるほどには多くはないが、それでも、文章にできずにテーマを何度も捨てた記憶がある程度にはよくあるものなのだ。もちろんとうぶんは下手くそだろうが、それでも気長に見守っていてほしい。じゅうぶんな訓練を積んだ暁には、あなたがたに良い短編を読ませられるようになると、わたしはわたしに期待している。