想像が創造する

「研究のよろこびは、想像のよろこび。むかしの論文でもさいきんの論文でも、とにかくすばらしい論文にはかならず、書いた研究者のゆたかな世界観が沁みこんでいるの。その世界をこっそり覗いて、きれいだなぁって感動したとき、わたしは研究をやっていてよかったって思う。

 

もちろん、わたしに世界のすべてが見えるわけじゃない。ううん、じっさいのところ、わたしに見えているのは、そのほんの一切れだけ。もし全部が見えるならどんなにすばらしいことだろうっておもうけど、その場合わたしは偉大な研究者のすべてを理解したってことになるし、そんなことはぜったいありえない。だって、すばらしい論文の中身は、わたしには到底思いつけそうにもないことなんですもの。

 

でも、世の中のすべての論文がすばらしいわけじゃない。すばらしい論文を読んだとき、たしかにわたしは心が洗われたみたいな気分になるけれど、裏を返せば、それはほとんどの論文はすばらしくなんてないってこと。そういう論文には、著者の世界がわたしに伝わってないだけかもなって思うものもあるけど、たいてい、きれいな世界は著者の頭の中にもないような気がする。

 

たぶん、そういう研究をするひとは、わたしと研究に対する考え方がぜんぜん違って、たぶん、想像するのがあんまり好きじゃないんでしょうね。どう研究するかは個人の自由だから、ひとのことをとやかく言う気はないけど、しょうじき、そんな研究をしてて楽しいのかなってわたしは思う。それとも、これだって、好みは人それぞれだってことなのかな」

 

 

 

さて、一昨日書いたように、わたしは彼女に「楽しいのかな」と言われる側の人間である。そして残念ながら、わたしは楽しい。だが、わたしにも彼女に同意する点がある――もっとも、彼女はわたしの脳内存在だから、多かれ少なかれわたしと似通っているはずなのだが。

 

さてそれは、世界を想像するのは大切だということだ。わたしはたしかに、想像そのものをよろこびだとは思わないが、何かをつくろうと思えば、まずその周辺についてあれこれと思いをめぐらせるべきだろう。問題解決でも、日記でも、おそらく創作活動でも、想像は創造の土台になる。

 

たとえば、この日記はこうして作られている。まず、わたしはテーマを決める。テーマじたいは、ひとことであらわせるほど単純なものだ。今日ならば、創造のために想像することについて。

 

これだけだとまだ文章にはならないから、わたしはことばを肉付けしていくことになる。このときもし、テーマをただまっすぐに説明してしまえば、説明はすべて蛇足になるか、悪ければ矛盾してしまうだろう。こうして付け加えられる文章は、ただ結論をこじつけるだけの言い訳にすぎないからだ。文章はシンプルなほうがいいから、無駄な説明はないほうがいい。

 

ではどうするかといえば、かわりに想像した世界を語るのだ。目標そのものをではなく、目標へと至る道筋を。普遍的なことからスタートして、ゴールまで脳内少女に道案内をさせよう。あるいは、ゴールまでわたしがじっさいに歩いてみて、その過程をそのまま文章にしよう。その途中で、道中で何が起こるか、わたしは想像するはずだ。

 

さて、こう見れば、わたしは彼女とそう変わらないようにも見える。やっていることはおなじで、ちがうのは、ゴールまでの経路とゴールじたいのどちらが大事かだけ。わたしは創造のために想像し、彼女は想像をもとに創造へとつなげる。

 

だが、その先のみちのりは異なるだろう。わたしはゴールに満足し、次のゴールを探す。彼女はゴールはどうでもいいから、そのまま歩き続ける。そのとき、わたしは彼女に新たな冒険を勧めるだろうし、彼女はこう言うだろう。「せっかくの世界をもう捨てちゃうなんて、もったいない」と。