論理的彫刻法

あたらしく研究をするとき、わたしたちはいつでも、既存研究との関係性を語らなければならない。もしわたしたちの研究が既存のフレームワークにあらたな問題を当てはめることなら、そのフレームワークの歴史と、その問題をあてはめることの意義を。もしまったくあたらしい研究ならば、わたしたちと似た目標を掲げる研究の紹介を。この世界は広くて、たいていのことはすでに誰かが考えているから、紹介すべき研究がまったくないということはあり得ない――すくなくとも、こじつけることすら不可能なことは。

 

この意味で、研究はすべて、先人たちのつくった土台の上に築かれる。もっとも、中身をつくってから既存研究を調べるのは常套手段だから、土台の上にあるように見せている、と言ったほうが正確かもしれない。だがどちらにせよ、わたしたちは先人たちの結果をつかって、みずからの研究の説明をバイパスしているのだ。

 

さて、わたしたちの思考にも同じことが言える。わたしが考えるとき、わたしはわたしがこれまでに考えたことを前提にして考える。だからわたしの思考は、わたしという大きな土台の上に築かれていると言える。

 

この日記のために考える場合だって、そうだ。わたしが書くことを考えるとき、わたしはあくまで、わたしの前提のうえに論理をくみたてる。前提を疑いなおしたり、いちから作り直したりはしないのだ。

 

だがこの日記は、あくまで公開して、読んでもらうための文章である。そして、わたしとちがって読者は、わたしという前提にそう詳しくない。だから、もしわたしが前提を書かず、今日考えたことだけを書いていたら、読者はさっぱりちんぷんかんぷんだろう。だから、中身の話に入る前に、まずわたしはわたしという土台を説明しなければならない。ちょうど論文のイントロダクションで、先行研究をいちいち紹介して回るのと同じように。

 

そして、論文のイントロダクションが予想外に長くなるのとおなじように、前提の紹介は意外と大変だ。わたしは、わたしにとってだけはあたりまえの前提を掘り返し、分析し、論理的飛躍なしに語らなければならない。もっと言えばわたしは、わたしにとってまったく飛躍ではない部分が客観的に見て飛躍しているかどうか、つねに判断しつづけなければならない。

 

さて、わたしはこの日記を、毎日考えて書いている。わたしはわたしが一日で思いつくことしか書けないから、毎日の内容は大したものにはなりようがない。にもかかわらず、わたしの思考はわたしの前提に基づいているから、わたしは毎日、わたしの前提を説明しつづけなければならない。

 

そして、それはむしろ、わたしにとっては良いことだ。第一に、前提の説明は、必然的に文章を長くする。どんなに内容が薄くても、わたしはそれなりの量を書かなければならないから、わたしはそのぶんだけ文章を練習できる。

 

そして第二の理由は、書くことをつうじてわたしは、わたしという存在について語ることができるということだ。わたしはいったい何者なのか、わたしはその答えをつねに探しているが、じっさいに答えるのは不可能だろう。だが、方針をひとつ立てることはできる。すなわちわたしは、わたしが前提とするものの集合体だから、前提を語れば、間接的にわたしを語っていることになるはずだ、ということだ。

 

もっとも、こうしてかたどられたわたしの姿に、わたしは納得することはないだろう。その説明はあまりに膨大で、書いたとうのわたしですら、すべて把握しきれるものではないはずだからだ。だが、これがわたしにできる精一杯である以上、わたしはわたしを彫り出しつづけるつもりだ。