振り返り:研究の建前

日記をはじめたわたしが一番書きたかったことのひとつは、研究という行為の意義についてだった。

 

ご存知の通り、わたしは博士課程の学生だ。世界の未来を担う研究者の卵として、日夜研究に励んでいる……ことになっている。人類史に燦然と輝く金字塔を打ち立てる日を夢見て、みずからの信念に己をなげうち、暗闇をかき分けて進み続ける孤独のギャンブラーだ……というふうに、好奇の目で見られていたりもする。

 

もちろん、そんなのは建前に過ぎない。建前にしても大風呂敷が過ぎるとは思うが、話というのは大きければ大きいほどいいらしい。とにかく、未来だとか金字塔だとか理想だとか信念だとかそういう概念は正直、わたしには眩しすぎて直視できない。

 

……だったら、見なければいい。建前は建前。黙って研究を進めろ、話はそれだけだ。

 

だが、どうやら。一年前のわたしには、見て見ぬふりということはできなかったらしい。わたしたちが語っている未来とはまったくの欺瞞ですよ、そう声を張り上げたくて仕方がなかった。

 

それはおそらく、耐えられなかったからだろう。建前を本音が如く語る、そういう人たちの気味の悪さに。

 

建前は語り続けることに意味がある。一年前のわたしでも、さすがにそれくらいは分かっていたはずだ。未来なんて気にしていなくても、気にしているふりをしておく。研究者全員が一貫してそうすることで……下世話な話だが、国から予算が降ってくる。

 

誰かを騙して、役に立たないことに予算を使わせること。そのことに抵抗があるわけではない。世間とはハッタリの上手い奴が勝つもので、研究者たちは単に、うまいポジションに収まっているに過ぎない――すくなくとも、わたしはそう信じている。

 

専門の話が専門家以外には伝わらないという事実。ハッタリに真実味を持たせる技術。それはおそらく、大いに役立っていることだろう――文部科学省の予算執行者を騙すことに。

 

だが、自分は騙せない。なぜなら自分は、当の専門家なのだから。

 

そして。建前を語る研究者たちは、同じ専門であるわたしに対しても、予算申請書と同じレトリックを用いてくる。書類のための建前が、あたかも本音であるかのように。

 

……目の前の問題を解きたいという欲求より、学術に貢献したいという犠牲心のほうが、先に立っているかのように。

 

未来のあるとき、自分の研究が再発見されて、重要な社会変革のひとつのパーツになること。そういうことにわたしは興味はないし、そのために研究をやったりはしない。そんな未来が訪れる確率は厳密にはゼロではないが、それはあくまで数学的な話であって、現実的な話ではない。わたしは賭け事は好きではないから、もし社会の役に立ちたいなら、研究などという回りくどい手段を取ろうとは思わない。

 

研究者は馬鹿ではない。むしろ、非常にかしこい。役人相手のハッタリがわたしに通じないことくらい、分かっているはずだ。それでもわたしに書類のレトリックを用いてくるのは、いったいどうしてなのだろう?

 

答えは、到底出せそうにない。言えるのは、ひとつだけ。

 

相容れない考え方には、同調しようと試みない方がいい。