世間的突飛コンテンツ

世の中にはたくさんのひとがいて、それぞれみな異なる思想を持っている。政治や経済、大学受験の勉強方法からプロ野球の采配に至るまで、まったくおなじ思想のひとは二人と存在しないだろう。

 

そして、世の思想とは、個々人の思想の莫大な寄せ集めである。全体から見れば、ひとりの思想は矮小だ――もっとも、ある人の思想は過激である人のは穏当だったり、またある人の発言権は大きくある人のは小さかったりもするが。だからほとんどの場合、わたしがどう思っていようが、世の中全体にはなんの影響もない。

 

というわけで、わたしの思想は自由だ。ある問題に関して、わたしがいかに過激な思想を持っていたとしても、それだけで世の中がわたしの思い通りになったり、あるいはわたしのような人間を排除する方向に動き出したりはしないからだ。逆に言えば、わたしがその問題に一切の関心を寄せなかろうが、問題自体が消えてなくなるわけではないからだ。

 

思想が世の中に影響しない以上、わたしの思想はわたしのためにある。そしてわたしは、面白いことが好きだ。だからすなわち、わたしの思想は、面白ければ面白いほど良いということになる。

 

そして面白い思想とは、世間一般的な、常識的な思想ではありえないだろう。それは社会システムと倫理観にがんじがらめにされていて、なにを考えてもまず、不自由な現実の問題が顔を出してくるからだ。すなわち、わたしにとってのよい思想とは、思考実験というゲームの体験をより高める、より突拍子もない思想のことだ。

 

さて、冒頭に述べたように、世の中にはたくさんの人がいて、みなそれぞれ独自の思想を持っている。その数はあまりに多すぎるせいで、わたしが考え付くようなことは、すでに数えきれないほど考え尽くされている。だからわたしがいかに突拍子もない思想を持ったと思っても、その思考実験の結果は、まったくあたらしいことにはなりえないだろう。

 

だがだからといって、思考実験はつまらないわけではない。

 

たとえば、独我論。世の中に存在するのはわたしだけだというこの思想は、あまりに使い古され、くたびれている。他人がみな意識のないロボットかもしれないという仮説に、誰しも一度は思いを馳せたことがあるだろう。そうして、それが原理上否定されようがないという事実に、末恐ろしい気分になったことがあるだろう。

 

だがそれでも、世の中は独我論をもとに回っていない。世の中にわたししかいないのであれば、社会など回せないからだ。そしてそれこそ、独我論が自由なゆえんである。独我論は、世の中の一要素でありながら、絶対に主流にはなりえないからだ。

 

世の中は最高のコンテンツだ。世の中を変えるなどという実現不可能な試みにみずからを浪費しようとさえ思わなければ、世の中はわたしたちに、あらゆる思想の種をもって答えてくれる。そして、その尽きることのないコンテンツの宝庫に魅せられて、わたしはわたしのためだけの思想をあたためてきた。そしていま、その宝物の一部を、こうやって文章にしている。わたしのために、完全にわたしのためだけに。

 

というわけで、わたしは感謝せねばならないだろう。わたしに考えさせてくれる世の中に、わたしに文章を書かせてくれる世の中に。

 

だがそれでもわたしは、世の中になにかを返そうと試みる必要はない。わたしは世の中を変えることはできないし、さらにいえば、変えなくてもじゅうぶんに面白いのだ。