グレーをグレーと言いつづける

およそ世の中には、あらゆる意見の対立がある。財務政策の是非から自由と人権の関係、地球環境から教育問題に至るまで、そのレパートリーは多岐にわたる。

 

だがその対立の大半は、わたし個人にはどうしようもない。わたしがどれほど強烈な行動をとろうが、それらはスケールが大きすぎて、大勢はほとんど変わらないのだ。

 

たとえばわたしが仮に、地球の温暖化をこの上なく憂慮して、一切の二酸化炭素の排出を抑えた生活をしていたとしよう。排気ガスの削減のため、わたしはもちろん車で移動することなどできないし、飛行機で海外へ行くなどもってのほかだ。

 

日本の電力の大部分は火力発電によるものだから、電力は使わないべきだ。そのためわたしは、一切の家電製品を捨てる。さらに言えば、呼吸とは二酸化炭素を放出するいとなみだ。だからわたしは息を切らさぬため、ただあなぐらに閉じこもるのがよい。

 

……と、もちろんこんな極端な生活は非現実的だが、きょうの論点はそこではない。問題は、わたしひとりがそれほどまでに気を遣った生活をしても、地球環境にはいっさいの影響がないだろうことだ。わたしの節制生活の結果は、普通の生活どころか、わたしが地球を全力で温暖化させにかかったときの結果とすら大差ない――街じゅうを練り歩き、あらゆる部屋のクーラーと窓を片っ端から全開にしていったときの結果とすらも。

 

というわけで、おおかたの問題に対して、個人の意見は無意味だ――わたしがだれかを巻き込み、祭り上げ、社会運動を起こそうと画策しない限りは。そして、わたしにそんな気はない。だから、わたしがどんなに正統な、あるいはどんなに極端な意見を持っていたところで、どこにもなんの影響もないことになる。

 

だからもし、わたしが意見を持つ必要があるとすれば、それはわたし個人の感情や、わたしのまわりのローカルな人間関係に関連しているときだけだろう。たとえばわたしの仕事が、特定の意見を持つ集団からの資金援助を受けている場合。スポンサーと良好な関係を築くためには、スポンサーの論理を身につけるのが得策だ。あるいは単に、意見のぶつけあいというロールプレイを楽しむ場合。一般的なロールプレイ、たとえばきのこたけのこ戦争は、どちらかの側に立ってはじめて楽しめるものだ。

 

そして、そうでない場合は。すなわち、わたし個人になんの感情もなく、わたしのまわりに利害関係もない場合。そんなとき、わたしに意見は必要ない。わたしの態度は中立、完全なる中立なのだ。

 

というわけで、わたしは意見が意味を持たないと知っているし、だれかの意見を取り入れる気もない。だがあいにく、わたしの無意識の習性はそうではない。わたしの好奇心は、既存の意見に無関心を貫けるほど静かにはできていないのだ。

 

だからわたしは意見を見ると、その出来を評価したくなってしまう。あるいは、自分でまったくあらたな意見をつくって、その質を吟味してみたくなってしまう。その意見に、またはその逆に溺れないための、最低限の注意を払いながら。

 

わたしの欲求は言うならば、論理性の品評会だ。正統なものから突拍子もないものまで、わたしはあらゆる意見をならべて評価する。わたしは優勝意見を決めることも、どれかに傾倒することもないが、だからといって、すべての意見にひとしい評価を与えるわけではない。

 

そしてそれこそが、意見というものの正体なのかもしれない。評価の過程で、わたしの意見は、わたしが評価した意見の重み付きの重ね合わせになる。よいと思った意見は重く、悪いと思った意見は軽く。わたしはひとつの意見を信奉しないが、すべての意見を信奉するわけでもないのだ。

 

白か黒かの判断に意味がない以上、世の中のほとんどはグレーだ。そしてわたしが偶然にも、グレーをグレーのまま扱うすべを身につけたようだ。そう指向したわけではなく、単なる好奇心と論理ゲームの帰結として。

 

もっとも、グレーをグレーのままにすることだって無意味だ。白と言おうが黒と言おうが、それは世の中になんの影響も及ぼさない。だがそれでもわたしは、グレーをグレーと言いつづけたい。結局のところ、意見の品評会という論理ゲームは、わたしの大切な楽しいおもちゃなのだ。