構想の感想文

一昨日まで十一日間にわたって、わたしはわたしの妄想を、短編小説のかたちにまとめ上げてきた。よい作品に仕上がったのかは読者のみぞ知るが、作者としてはすくなくとも、おおきな挫折も設定上の矛盾もなく、当初の予定地点にまでたどり着けたとは思っている。

 

思っていたよりも、執筆は地味な作業だった。日々の作業は、どでかいなにかをぶち上げることでも、完璧に核心を突いた言葉を探すことでもなく、その日に紹介すべき要素をすべて紹介しながら、ストーリーを少しでも前に進めることだ。そして、なにをいつ紹介すべきかも、どういう道筋でストーリーを進めるかも、すべて構想段階で定まっている。だから、昨日述べたように、執筆作業はそう難しくはなかった。

 

さて、執筆作業については昨日述べたので、構想の話をしよう。クライマックスの感動というゴールが定まっていれば、構想は理詰めの作業である。

 

構想は、クライマックスを引き立てるためのものだ。だからたとえば、主人公が信頼している他者の存在がよい感動を引き起こすのならば、その他者を設定するべきだ。ではその他者は、主人公とどういう関係にあればよいだろうか? 先輩か後輩か、あるいは家族か先生か? 

 

そういう設定は、わりと簡単に見えてくる――それぞれを描きたい感動の姿にあてはめて、もっともしっくりくるものを選べばよい。もしどれもそれなりに良いのなら、思い悩むことはない。どれを選んだってそれなりの物語にはなるだろうし、そもそも複数人を登場させてもいいのだ。もし逆に、どれもしっくりこないのなら、その妄想は不完全で、小説にするには値しなかったということになる。

 

このように、クライマックスに至る道は帰納的だ。小説を書くのは間違いなく創造的ないとなみだし、執筆はある意味では単純作業だが、構想という作業すら、すでに狭い意味では創造的とは呼べないのかもしれない。なぜなら構想には、突飛な発想も未来への瞥見も、必要ないからだ。

 

さて、おそらくだが、以上は短編にかぎった話だ。もしかするともっと状況は限定的で、わたしはわたしの書いた特定の小説を分析しているだけなのかもしれないが、その疑問はひとまず置いておくことにしよう。とにかく、わたしの体験を最大限に一般化したところで、長編小説のための方法論を語ることはできないだろう。

 

その根拠はわたしが、長編を書こうと試みた経験に基づいている。だいぶ前、わたしは長編を書きかけた。もしかすると読んでいただけていたかもしれないが、壁に囲まれた世界での、技術者とクライマーの少女の物語だ。

 

その第一部を書き終わったあたりで、ひとつの問題が発生した。世界設定が甘すぎて、そのままでは、話を続けることができなくなってしまったのだ。第二部からは、わたしは壁の外の世界を描くつもりでいた。だがそのためには、壁の中と外を比較する必要がある。そして、比較が成立するほど、わたしは壁の中の世界をまじめに設定しなかった。

 

これは短編ではおそらく起こらない問題だ。設定がほとんどないにもかかわらず、一昨日までの短編は問題なく進んだ。長編だって、第一部はまっすぐに進んでいったのだ。その長編の第一部は、一昨日までの短編すべてよりも長かったから、おそらく、その意味するところは以下の通りだ。設定が甘くても、数万字まではどうにかなる。

 

さて、できることなら、わたしは将来的には長編を書きたいとは思っている。大量の設定情報で読者を押し流し、その世界があたかも実在するかのような錯覚を植え付ける文章を書きたいと思っている。だがいまのところ、それに堪えるだけの構想力は、まだない。

 

だが、だからといって悲観することはない。文章を習慣的に書き始めて、わたしはまだ半年だし、それだけの努力で長編を書けるほど文章は甘くないだろう。だから今は、とりあえず短編を完結させられたということで、ひとつ満足しておくことにする。