最終回への布石

例の短編を書き終わってからというもの、わたしは執筆について思ったところを書き続けてきた。もう書き上げてから五日目だし、そろそろこの話は終わりにしたいのだが、なかなかそうもいかないようだ。それを証拠に、昨日だってわたしは、もう短編の話からは離れると言っていた。だが昨日の日記は半分くらい短編の話だったし、そして今日も、懲りずにこんな書き出しから始めている。

 

それはもちろん、いつものように、次のネタが思いつかないせいだ。いや、正確に言えば、ネタ自体はある。わたしは意外と無計画でもなく、題材が尽きたときのために、ある程度の文章の欠片がエディタに溜めこんであるからだ。

 

だがわたしがその欠片を、文章のかたちに組合わせられるかは別問題だ。欠片をつくったとき、わたしはそのテーマが、なにか文章になるほどに真相を突いたものだと考えている。だが冷静になってみると、それはかならずしも、正確な分析でも確固たる意志でもない。むしろ好き嫌いのひとことですべての説明が済んでしまうほどの、どうしようもなく薄っぺらい感情の断片にすぎなかったりするのだ。

 

それでもこれまでは、わたしはその断片をどうにか文章にしてきたような気がする。だが例の小説を書いて以降は、なぜだかうまくいかない。まるで、わたしでない他者の内面を語るのに慣れすぎて、わたし自身を内省できなくなってしまったかのように。


……あるいは、わたしはほんとうに、わたしを忘れてしまったのかもしれない。

 

小説を書き終わって普段の文章に戻ったとき、わたしは久々に闇の中を歩いていた。そこには小説と違って、目指すべきクライマックスという光が存在しない。わたし自身がなにを書いているのかを分からないままに、わたしはそれでも、文章という道をよろめき歩み続ける。

 

だがそれは、わたしがずっと歩み続けてきた道ではなかったか?

 

さてなぜ、わたしは書けなくなってしまったのか。わたし自身の真実とは、風が吹けば変わってしまうほどに繊細なものだから、その乱暴な問いに無理やり答えたところで、真実などすっかり砕け散ってしまうのだろう。だがわたしとは、理屈の通用しないところに無理やりに理屈を適用する存在だ。だから書けなくなった理由に関して、わたしはいつものように、いくつかの仮説を持っている。

 

その仮説とは。ひとつには、わたしには小説の癖がついて、いつもの文章まで小説らしく仕立てようとしてしまっている。もうひとつの仮説、わたしがこれまでやってきた文章の組立て方を、よいと思わなくなった。あるいは、単に調子が悪い。または、やる気の問題。

 

さて、いずれにせよ、こんな状態で続けていたところでよい文章は書けないだろう。わたしがいい仕事をするのはいつだって楽しんでいるときだが、いまこの文章を書いていて、わたしはあまり楽しくないのだ。とりわけ、小説を組立てる感触を知ってしまった、いまとなっては。

 

だから、もしかするとわたしは、日記を休むべきなのかもしれない。次の小説を思いつく、その瞬間まで。じっさい日記は、わたしの日常生活に少なからぬ負担を強いている。わたしは毎日、二時間を取られているのだ。

 

そう、三日坊主で終わるはずだったこの日記は、なんともう半年も続いた。そのあいだに、わたしは小説を含めていろいろなことを経験した。書きたかったたくさんのことを書いた。そしてわたしの文章は、間違いなく上達した。だから、たとえいまやめても、わたしはこの経験に胸を張れる自信がある。

 

でも。もう少しだけ。

 

もう少しだけ、わたしには余力がある。まだ執筆を好きでいられている。だからいちおう、まだ続けてみることにしよう。つぎに本当にどうしようもなくなって、文章を書くことすら嫌いになりそうなら、そのときあらためて、終わりにすればよい。