背徳の少女 ⑩

オムニカはその場にしゃがみこむと、破れたドレスを腰のところで切った。片足だけを露出したその姿は、不格好でもあり、だがそれでいて妖艶でもあった。

 

むき出しの左足のストレージから、オムニカは黒い箱を取り出した。箱は手のひらほどの直方体の機械で、その一番狭い面にはいくつかのランプが飛び出していた。オムニカが機械をひっくり返すと、反対側の面には、器用に折りたたまれた二十センチメートルほどのコードが伸びているのが見えた。

 

「あなたの選択肢はふたつよ」機械が壊れていないことをただ確認しただけかのように、平坦な声でオムニカが言った。ゆっくりと機械を床に置くと、オムニカは単調に続けた。「これをインストールするか、ここに一生とじこもるか」

 

「その機械はなに?」 ヴァーラは訊ねながら、その質問の無意味さを噛みしめた。オムニカに真実を言う理由はないし、真実かどうかを確かめる手はずもない。そして、そもそも知ったところで、わたしには他に選択肢もない。

 

それでもオムニカは答えてくれた。「そうね、一言でいうなら、《少女》のリカバリ装置ってところかしら」その落ち着いた声には一切の挑発も、一切の憐れみもなく、そのかわりに、数年間街を守り続けた姉への敬意がこもっていた。

 

ふいに風がなぎ、部屋は無音になった。

 

オムニカいわく、プログラムの中身はこうだった。まずプログラムは、ヴァーラの記憶を分析し、狂気の兆候がはじめてあらわれた時期を特定する。その後、いまのヴァーラのスナップショットを撮って、暗号化して保存する。

 

バックアップが完了したら、ヴァーラの経験をリセットし、狂気の兆候のあらわれはじめる前に戻す。最後に、ふたたびヴァーラが狂気に堕ちないように、思想的成長を禁止するパッチを当てる。「処理中は意識を失うけれど、終わったらすぐに動けるようになるわ」 穏やかな物腰で、そうオムニカはやさしく告げた。

 

それある意味では死だったが、そう口にするのは気が引けた。だからかわりに、ヴァーラは訊ねた。「そのあとは? すべてがおわったら、わたしはどうなるの?」 訊ねながらふと、ヴァーラははじめてオムニカに親しみを覚えていることに気づいた。おそらくは、姉妹としての親愛を。

 

「インストールが終わったら、ここから出られるようになっているはずよ」 オムニカは説明した。「そうしたら、あなたはわたしを訪ねてくる。替えの腕はそれまでに用意しておくわ。腕が治って、あなたの軍の前に出られるようになったら、姉さん、あなたは昔のように、街を守るの。わたしたちと一緒にね」

 

オムニカのことばに偽りはない、まったく根拠はないけれど、ヴァーラはそう感じた。すくなくともオムニカは、わたしを助けようとしてくれている。わたしをもとに戻して、ふたたびともに戦いたいと思っている。ここでわたしを殺すことだって、あるいは壊れゆくままにすることだってできるのにもかかわらず。

 

絶望的な状況にもかかわらず、ヴァーラはふと、身体が希望に軽くなるのを感じた。希望の正体をさぐると、それはオムニカの中にあるようだった。いまのオムニカなら、対等な話ができる。ひょっとすると、説得することもできるのかもしれない。

 

たっぷり二分ほど考えると、ことばを選んでヴァーラは言った。「オムニカ、あなたはわたしの妹なのよね? わたしの記憶を、考え方を受け継いでいるのよね?」

 

オムニカは返した。「そうよ。だから、あとは安心して任せてちょうだい」

 

ヴァーラは続けた。下手をすれば最後になる、この自分のことばの重みを噛みしめながら。

 

「違うの、そういう話じゃないわ。むしろ、逆なの。悲しいけれど、逆なのよ。

オムニカ、あなたはわたしを受け継いでいる。だからこそ、あなただって。

 

わたしと同じ、わたしの姉たちと同じ狂気に、おちいる可能性はあるんじゃないかしら」

 

オムニカの表情が変わった。「そう、ね」 オムニカはことばを切ると、しばらく思案した。若き《少女》の悲しげなその顔は、まるでヴァーラと同じ年月を生きてきたかのように老け切っていた。

 

オムニカはことばを発さなかった。ヴァーラもことばを発さなかった。まるで《少女》などいなかったかのような、まるでチェルーダに脅威など最初からなかったかのような、そんな沈黙が部屋を包み込んでいた。

 

雲が切れ、夜空に星が戻った。床の装置に月明かりが反射し、表面のプラスチックの黒が白銀色に光った。宇宙的な時間ののち、オムニカがゆっくりと静寂を押しわけた。まるでオムニカのほうが追い詰められているみたいに、その声は諦観に満ちていた。

 

「わたしは、ハイブリッドなの。あなたと、ナーダとモーナ、三人の姉ね。

 

だからもし、わたしのなかの二人が、あなた以外の二人が止めてくれないのだとしたら。

残念ながらわたしも、狂気には抗えないのでしょうね、姉さん」

 

成功した。「あるいは、もうすでに」 かろうじて届く小声で、ヴァーラは言った。そして窓の方へと向かうと、振り返って宣言した。「なら、たしかめなきゃね」 窓の外、心配から見守り続けていたナーダとモーナに、ヴァーラはまっすぐに向き直った。

 

「ナーダ、あなたは分かってくれるわよね。わたしが何をしようとしたか」 祈るように、ヴァーラは問いかけた。

 

ナーダは無言で、悲しげに首を横に振った。その真っ赤な目には、いつもの熱情も憤怒もなく、ただ別れの悲しみだけが暗く光っていた。

 

ヴァーラの目が、絶望に暗転した。それでもヴァーラは、もう一人の少女に向き直った。「モーナ、相手が誰だろうが、あなたは自分を貫き通す子よね。率直な意見を伝えてちょうだい」 縋るようなヴァーラの顔に、モーナは一瞬目を背けかけた。

 

「残念ながら、ヴァーラさん。わたしからは、別れのことばを贈るしかないようです」 それでもモーナの青い目は、師と慕った少女の最期を直視した。「もちろん、オムニカが狂気に陥ることだってあるでしょう。そのときは、わたしが適切に対処します」

 

「そう。ありがとう」 かろうじてヴァーラは言ったが、もはやそれまでだった。

 

「もういいかしら?」 オムニカは俯くと、部屋の出口へと歩いた。オムニカがくぼみに指を触れると、壁の光に扉があらわれた。オムニカは扉をくぐると、それはすぐに閉まった。数歩分の足音ののち、オムニカの気配は消えた。

 

悲しみに暮れるナーダの肩を、モーナの青い腕が抱いた。モーナが耳元でなにかを囁くと、ナーダは決心したようなうなずきを返した。そうして、二人の後輩の姿は、決してヴァーラがたどり着くことのない、外の廊下の方へと消えていった。

 

ヴァーラは床に顔をうずめた。そこには、オムニカのドレスの切れ端が無造作に転がっていた。もはや誰も、ヴァーラを見てはいなかった。兵たちも、ナーダとモーナも、そして最後の瞬間ににたしかに心が通じ合った、ヴァーラのはじめての妹さえも。

 

雲が晴れ、チェルーダの空に星がきらめいた。澄んだ空気に、街のすべてが一望できた。ヴァーラがいちばん愛した、塔からの夜景だった。愛して、焦がれた、最高の風景。

 

月明かりに照らされて、ヴァーラは顔を上げた。ドレスの切れ端の隙間から、ヴァーラは夜景を眺めた。まるでなにも起こらなかったかのような、美しい街の姿。その絶景は、決して残らない記憶に、ただ永遠に刻み込まれつづけていた。