背徳の少女 ③

ナーダの首が、目の前に浮かんでいた。

 

新米の《少女》の、哀れな残骸が。

 

その残骸のどす黒い目には、いつもの燃えるような覇気はなく。

 

その残骸の首元からは、焼け焦げた無数の配線が絡まり合っていて。

 

配線をただそうと、ヴァーラはそのまっ茶色の一本を手に取った。だがそのもつれははるか下の、見えない地面にまで垂れていた。上に引いても、その配線はなにか重いものにつながっているようで、びくとも動かなくて。

 

そうしてヴァーラが配線を引っ張り続けるごとに、ナーダの配線は壊れていった。

 

手に滴るものを感じてヴァーラが顔を上げると、そこにはモーナの顔があって、やっぱりどす黒い目から、真っ黒な油が垂れ落ちていて。

 

あまりのグロテスクに思わず目を背けると、ヴァーラの眼下にはチェルーダの街が広がっていた。だがそれは、ヴァーラの知る美しい街ではなく。

 

いたるところに、歩行機械の残骸があって。いたるところに、紅蓮の炎が燃え盛っていて。

 

気づくとヴァーラは街へと降り、その目は水を探していた。図書館の火災を見ると、ヴァーラは自分の兵に指示を出した。貯水池から、水を。水を、水を。水を、水を!!

 

だが、ヴァーラの指示に従う兵はどこにもいなくて。そうしてヴァーラは、自分の兵などとうにいないことを理解した。

 

笑い声。

 

重厚で、自信に満ちた、笑い声。

 

ヴァーラは声のほうへと向かおうとした。だがなぜだか、うまく進めなかった。声の主は姿を見せ、ヴァーラの目の前を嘲るように飛んでみせた。まるで、ヴァーラが前に進めないと、とうに知っているかのように。

 

そうして、ヴァーラが手間取っているうちに。声の主、漆黒の少女は。

 

爆弾をひとつ、右手で転がした。けたたましく笑いながら、ヴァーラたちの住処のほうへ。

 

笑い声、笑い声、笑い声。

 

その不快な声と、住処が壊れる音を聞きたくないばかりに、ヴァーラは耳をふさいで目を閉じた。

 

しばらくののち、ヴァーラが顔を上げると、もう少女も、街の全ても消えていて。でも、あの不吉な笑い声だけはまだ続いていて。

 

笑い声。

 

そしてヴァーラは、その声の主が、

ほかならぬ自分自身だと理解した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

「司令官? ヴァーラ司令官?」 新兵の声に、ヴァーラは我に返った。気づくとそこは焼失したチェルーダなどではなく、彼女と彼女の信者たちの、愛すべき名もなき街だった。そして、先ほど偵察したとおり、チェルーダはまだ消失してなどいなかった。

 

「何かあった?」 最大限の平静さでヴァーラは答えたが、内心では動揺していた。ヴァーラはこれまで、みずからの狂気の種を隠し通そうと努力してきた。だがいま、ヴァーラの目の前の新兵は、ヴァーラの異変に確実に気づいていた。

 

そう、ほんらい、《少女》は眠らないし、夢も見ない。なぜなら、ヴァーラを含め《少女》は、戦いの指揮のために作られたヒューマノイドだからだ。機械の眠らない軍勢と戦うための機械に、誰がわざわざ、不必要に停止する機能を追加するだろうか?

 

にもかかわらず、ヴァーラはさっき、夢を見ていた。むろんヴァーラはヒューマノイドだから、ヴァーラが夢と呼ぶそれは、人間が寝ているときに発生する脳の生理現象とはまったく異なる。それでもなおヴァーラは、みずからを蝕む狂気の名前として、「夢」の一語がいちばん正確だと思っていた。

 

「そうだな、詳しく話を聴こうかしら」ヴァーラは新兵を手招きすると、ひとつの建物に向かった。それはまだ新しい、窓のないがらんどうの平屋だった。ヴァーラは建物の鍵をあけると、新兵を中に入れ、そして自分は外に残ったまま、外から鍵を閉めた。こうすれば、新兵は出てこられないはずだ。こんなことをするのは心苦しかったが、それは必要な犠牲だとヴァーラは知っていた。ヴァーラ自身の狂気の噂が広がっては、ヴァーラの信者たちのこの街はまず、もたないだろうから。

 

苦々しい作業を済ませると、ヴァーラは不可視になり、上空に舞った。ヴァーラがいま、彼女を信じるひとりを永遠に幽閉したことなど一切知らず、街はきたるべき戦いの準備を進めていた。ヴァーラは一安心し、思索をつづけた。

 

どうしてわたしは、ほんらいの機能にそぐわず、夢など見るようになってしまったのだろう。ある意味では、夢は彼女の設計のバグだった。だが、バグのひとことで片づけるには、夢はリアリティを持ちすぎていた。「そう、夢はもっと、有機的なもの」誰に聞かせるでもなく、ヴァーラはつぶやいた。

 

べつの解釈では、夢は彼女自身の矛盾をあらわしていた。もともと《少女》は、ただ戦争の作戦だけを立てつづける、合理的かつ冷徹な人工知能だった。《少女》をはじめて作った人類は、現にそういう知能を求めていた――「弓矢と騎兵の兵装でも人類側が勝てる」と言われていた、機械の反乱の初期。にもかかわらず、人類が敗北を続けた理由は、当時の人類はもはや、古典的な弓矢と騎兵の軍すらまともに扱えなかったからだった。

 

だが時代が進むにつれて、《少女》の役割は変わっていった。《少女》のもうひとつの役割、それはみずからを信仰の対象として、人類をひとつにまとめ上げることだった。勝利の母という、わかりやすいイコンとして。だから、作戦マシーンに過ぎなかった《少女》は、その身に似つかぬ人間性を獲得したのだ。そしてその矛盾が、合理性と人間性のその矛盾が、ヴァーラに夢を見させるに至った。

 

そこまで考えてふと、ヴァーラはひとつのことばに思い至った。夢を的確に言い換える、ある概念に。

 

前世の記憶。

 

そう、ヴァーラが見ているのは、前世の記憶。

 

《少女》は、ヴァーラが最初ではない。ヴァーラは、彼女が《姉》と呼ぶ何代もの系列の終着点だった。もっとも、ヴァーラは彼女たちのコードを受け継いでいるから、正確に言えば彼女たちは姉ではなく、母や祖母や、そのまた母なのかもしれない。だがヴァーラは、少女の見た目をした十数年前のヒューマノイドを、祖母と呼ぶのには抵抗があった。

 

そしてヴァーラには生まれつき、姉たちの記憶の一部が備えられている。それはそのまま、機械との戦いの試行錯誤の記録だからだ。作戦をたてるにあたって、またひとびとの信仰を受けるにあたって、ヴァーラはたびたび姉たちの記憶にお世話になった。だがその記録は、ヴァーラに望ましくない悪夢を見せることにもなった。

 

そう、ヴァーラは知っている、最初の姉の手探りの戦いと、失敗に次ぐ失敗の無力感を。

 

三番目の姉が敵を殲滅したときの、成功の甘美さを。だがその成功の裏には、敵よりもはるかに大きな犠牲があったことを。

 

自軍の犠牲に耐えきれなくなった七番目の姉が、敵味方問わずすべてを吹き飛ばした後の、あの孤独と後悔を。

 

ロバーキに寝返った十番目の姉の、人類への諦観と絶望を。

 

そのすべてがいまのヴァーラに、消えない悪夢を見せていた。

 

悪夢とは、何代にもわたって積み重ねてきた、《少女》の背徳の歴史なのだった。