夢を見る訓練

宇宙という夢について……なんていう、浮足だったことについて書いてみた。昨日一昨日と二日間、普段のわたしからすれば柄にもないことだけど、たまにはそんなことをしてみるのも面白い。

 

ああいうことを書いてはみたけれど、いつものわたしは基本、宇宙なんかに興味がない。人類が到達できる宇宙はせいぜい太陽系の中くらいなもので、その外側がどうなっているかだなんて、期待してもしょうがない。たとえばかりに宇宙人がいて、地球人類と同等以上の文明を持っており、かつ友好的に交信する意図があったとしたところで、存在を知ることが出来ないほど遠くにいたなら意味がない。

 

サイエンス・フィクションは好きだが、宇宙ものが特別好きなわけではない。あまりに地に足がついていないせいか、むしろ苦手な部類に入る。わたしがフィクションに求めるのはあくまで、どんな世界がありえて、そこでひとびとがどう考えるのかだ。たいていの場合、舞台は地球か電脳空間でいい。宇宙で起こるのがふさわしいドラマももちろんあるけれど、そういう場合もわたしはあくまでドラマを見たいのであって、宇宙の神秘に立ち向かいたいわけではない。七本足の宇宙生物だとか、そういうものの存在に興味があるわけではない。

 

けれども宇宙とはやはり夢ではある。すくなくとも夢として扱われはする。人類がけっして到達できない場所だから、わたしたちは安心してほらを吹ける。現実が追いつかない場所なのだから、現実と創作の整合性をとらなくていい。宇宙にはおよそすべてのものが存在しうる。これが宇宙であるというお題目さえ唱えておけばだいたい、なにをでっちあげても許されるのだ。

 

そういう意味で、こと創作の中において、宇宙とは宇宙であって宇宙ではない。物理的な宇宙がどうなっているのかとはまったく関係なく、作者は自分の考え出した世界を宇宙だと主張できるのである。言ってしまえば、宇宙とは要するに、作者の心中風景と同義語なのだ。

 

かくして宇宙を語ることとは、ひとの想像を語ることに等しい。宇宙をゆたかに描写できるということは、そのひとが物理学に明るいということではなく、それだけ優れた創造力を持っているということを意味している。宇宙についてあえて書いてみることとは、あえて夢を見てみるということに等しい。文章の訓練たるこの日記にあてはめれば、さしずめ、夢を見る訓練とでもいったところか。

 

普段のわたしは夢を見ない。見られるようになりたいとは思いつつも、地に足の着いた想像をして生きている。だからこそ、無理にでも夢を見るために遠宇宙は役に立つ。ごくわずかな物理法則を除けば、そこで役に立つのは想像力ただひとつなのだから。