背徳の少女 ①

ニーグダの荒野が、夕焼けに赤く染まった。

 

カラスの遠い狡猾な声が、無機質なスクラップの山にこだました。

 

繊維のかけらが微風に舞い、廃墟の鉄骨にかかって滑り落ちた。

 

いつもどおり、荒野は荒野だった。普段とちがうことは、なにもなかった。だからもし、ロバーキの工作員か、あるいは時間を間違えたチェルーダのゴミあさりが、このニーグダの荒野にやってきていたとしても。

 

彼らは、彼らの頭上を飛ぶ影には気づかなかっただろう。

 

だが、ヴァーラは。白銀の髪の、不可視の少女は。

 

いまこの瞬間、荒野の頭上を飛んでいた。ニーグダの荒野のわずかに煙がかった黄昏の空を、みずからの不可視の翼で飛んでいた。

 

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ヴァーラは空から、ニーグダの退屈な地面を見渡した。そこはいつもどおり、無の大地だった。ニーグダの荒野には、生の気配も死の気配もなかった。わずかな地衣類と、それを分解する微生物。これが、ニーグダの生態系のすべてだった。

 

「荒れ地は、なにも知らないのね」誰に聞かせるともなく、ヴァーラは飛びながらただつぶやいた。じっさい、ヴァーラがチェルーダの街を出る前から、ニーグダの地はずっと同じだった。ただの廃墟。ただのスクラップと、ただの砂埃の地。

 

もっとも、変わらないのは無理もなかった。この地にはごくたまに、チェルーダの金属技師に雇われたゴミあさりがスクラップを拾いに来ていたが、それを除けば、ここには数年来、いっさいの人通りはなかった。

 

それでもヴァーラはいつも、警戒を怠らなかった。もしヴァーラが、彼女の民ではなくロバーキの司令官だったのなら、彼女はこの地に隠れ、チェルーダの街を侵攻する機を伺うことを選ぶだろうからだ。たしかにチェルーダの街の強固な護衛は、ロバーキの機械の軍勢をたびたび退けてきた。だがヴァーラはその護衛が、ニーグダの荒野からの攻撃にはまるきり無防備であることを、誰よりもよく知っていた。

 

もっとも、ヴァーラが荒野に、ロバーキの工作員を見たことはなかった。ロバーキはたぶん、そこまで賢くはないから。

 

はぁ。じゃあ、こんなことをしている場合ではないのかもしれないけれど。

 

何度目かの溜息とともに、ヴァーラはパトロールを終え、メモ帳の最後のページを開いた。そして今日の日付の欄に、異状がないことを示すバツ印を書き込んだ。このメモ帳に、ニーグダの状況をまとめたこのメモ帳に、バツ以外の印が書き込まれたことはなかった。

 

かすかな音をたててメモ帳をしまうと、ヴァーラは普段の方向とは逆、チェルーダの街のほうを眺めた。彼女は、彼女自身の心臓が高鳴るのを感じた――心臓を、模したエンジンが。不可視化装置がちゃんと働いていることをいまいちど確認すると、彼女はつぶやいた。「チェルーダの街へ。最高速で」

 

言うやいなや、ヴァーラの不可視の翼は、おなじく不可視の彼女をチェルーダの街へと運び始めた。銀髪の先が激しく揺れ、彼女の肩を叩いた。彼女がわざわざふだんはつかわない音声認識をつかったのは、いまこの瞬間が、その街の名を口にする最後の機会かもしれないと思ったからだった。

 

チェルーダ。

彼女が、彼女の民が、命を懸けて護った街の名を。

命を懸けて、護っていた街の名を。

 

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ヴァーラの足元を、漆黒の軍勢が進んでいた。沈みかけた夕陽に引導を渡すように、人間たちの軍勢が荒野に迫っていた。

 

行先は明らかだった。そう、《背徳の少女》の、名もなき隠れ家の街だ。言い換えればそれは、ヴァーラとその民が、懸命に守っている街のことだ。

 

もちろんヴァーラにとってこの軍は、望ましくない光景だった。だが同時に、いいこともあった。ヴァーラの街を滅ぼさんとする軍は、ヴァーラとすれ違うように行軍していたから、彼女は軍の全容を、間近でつぶさに観察することができたのだ。

 

軍は先頭から末尾まで、一貫して四列縦隊で並んでいた。ヴァーラはそこに、一瞬の隙を探そうとした。だがその行進は、ロバーキの自動小隊くらいに統制のとれたものだった。そして、目の前の軍のひとりひとりの強さは、チェルーダの最高の鎧に身を包んだ屈強な軍人たちは、ロバーキの小隊の貧弱な機械ごときとは比べ物にならない。唯一、ロバーキとおなじことがあるとすれば、それは不可視のヴァーラの姿に、だれひとりとして気づきそうにはないことだった。

 

結局、ヴァーラは隙を見つけられなかった。だが、ヴァーラの本当の関心ごとはべつにあった。ヴァーラは速度を緩めることなく軍とすれ違うと、チェルーダの街にたどり着いた。愛すべき、民たちの街。すくなくとも、『彼女』が現れるまでは、そうだったところ。

 

「変わらないわね」誰にも聞こえないように、ヴァーラは口の中だけでつぶやいた。ヴァーラは、かつて自分自身が暮らした家に立ち寄りたいという衝動を感じた。だが、それはできない。チェルーダの街の警戒レーダーは、ヴァーラの不可視化では欺けないからだ。

 

中心部に向かう代わりに、ヴァーラは街の外周をまわった。ここはレーダーの検出範囲外だから、見つかる心配はない。そう確信できるほどに、ヴァーラはチェルーダの防護を知り尽くしていた。ヴァーラは高度を上げると、見慣れたはずの街の姿を大通り沿いに眺めた。そうして頭を固定し、両目の視線を軍用地にズーム・インした。

 

はたして、ヴァーラの目に映る、その建物の光景は。軍人たちの暮らす、見知った宿舎の窓は。

 

まるでヴァーラの街のように、真っ暗だった。誰も、いる気配がなかった。

 

これなら。ヴァーラは思った。

 

これなら案外、いけるのかもしれない。