親愛の街 ③

もっとも、たとえ名があったとして。

 

それが外部に知られることは、近年まであり得なかっただろう。知ろうと思えば、まず言語を知らねばならない。そのためには、しかるべきフィールドワークが必要だ。言語学者か、すくなくとも、その手のトレーニングを受けた誰かによって。

 

軍の知る限り、この街に外部との交流はない。衛星からの光学写真では、ジャングルに覆われたこの街を撮影することはできない。だからこの街の発見は、軍用の透過式撮影技術の発達を待たねばならなかった。

 

この街の存在が外部の誰かに知られたのは、つい十年ほど前のことだ。

 

そして現在でも、この街の正確な場所は非公表だ。軍は知っているが、一介の言語学者が知ることはできない。街の存在じたい、都市伝説のひとつ。噂は漏れ聞こえているが、真剣に探索しようとするひとは稀だ。

 

未知の言語が言語学者の興味をそそる、というのは理解できる。学者の主是は未知の探究だから。だが同時に学者とは、自分を賢く見せたがるもの。オカルトに踊らされる人間だと思われることへの抵抗は、未知への好奇心なんかよりよほど大きい。

 

ほかにも、学者がここを探さないであろう理由はある。ニューギニアの険しい山々は、歴史上、ひとの行き来を阻み続けてきた。小さいままにとどまり続けた共同体は、いまも古より続く、独自の言語を使っている。生まれからして異なる、まったく独自の言語を。

 

もちろんその多くは、共同体の歴史とともに滅び去った。歴史の一部分としての現代にも、同様に。そんな言語はすべて、解析と滅亡の時期を争っている。存在は知れているが文法構造は未知の、いまにも消えてしまいそうな言語。無数の、風前の灯火のような思考体系を記録すること。オカルトの街を探す暇があるなら、近所のもっと重要な問題を取り扱えばいい。

 

だが。そんなことは、まだ超えうる障壁だ。世の中にはマゾヒストなる人種がいる。実のところ、学者のほとんどはそういう形質を持ち合わせている。未知なる言語を求めてニューギニアの山を彷徨う言語学者兼冒険家くらい……まあ歴史上、ひとりくらいはいてもおかしくはない。

 

真なる問題は、そんな一筋縄ではいかない。調査を終わらせたあと、言語学者は、生きて研究室まで帰ってこなければならない。

 

そして帰り道が、他の街と違って、決定的に難しいのだ。

 

もちろん、帰ってくるのが難しい街はほかにもある。この地の調査が進んでいない一因は、外部からの侵入者に友好的でない街が数多くあることだ。入ろうとすると毒矢で撃たれる街もある。入ることはできるが、初日の晩に、儀式の生贄にしようとしてくる街もある。

 

この街はそうではない。木立に潜む悪意の射手も、ひとを引き込んで捕らえる狡猾な罠もない。むしろ不自然なほどに、そういうものとは無縁だ。

 

ここでは、すべてがスムーズに進む。不自然なまでにスムーズに。そう演習で習った。

 

そして、だからこそ危険なのだ。