論理の鋳型を破壊せよ

昨日崩した体調は、一日寝たらだいたい治った。いまは少なくとも、鼻水が無尽蔵に流れ出もしなければ、思考がイって素っ頓狂な文章を書きはじめたりもしていない。ただ寝すぎた時の倦怠感と、あとは体温の調整に身体が失敗し続けているという実感があるのみである。

 

昨日の支離滅裂を書いていたときのわたしは、ある意味ではおそらく、酔っぱらっていた。ある意味でとつけたのは、べつに酒を飲んだわけではないからだ。そして、おそらくとつけたのは、わたしは酒を飲まないから、酒を飲んで酔っ払うというのがどういう状態なのか、あまりよく知らないからだ。

 

翻っていまはしらふである。といっても倦怠感はあるから、いまのわたしは二日酔いということになる……ある意味では、おそらく。ある意味ではとつけたもの、おそらくとつけたのも、やはりわたしが酒を知らないからだ。だがとにかく、今日のわたしは酔っぱらってはいないから、昨日の文章のような、思考がトンでイった文章を書くことはないのだろう。

 

とはいえ今日のわたしには、普段のような説明的な文章は書けなさそうだ。二日酔いの倦怠感は、わたしからさまざまな体力を奪い去ってしまった。いまのわたしには、書きたいことの前提を探る気力はない。前提が見つかったところで、細やかな論理に気を遣って話を展開する根気もない。そして、うまい結びのことばのための思考力もまた、ない。

 

だから今日は、普段と違って、書くことは書きながら考えていくことにしよう。日記をはじめたころ、文章とはそういうものだと思っていたように。義務感からでなく純粋な熱意から、はるかに短い文章を書き綴っていた頃のように。

 

もちろん、書きながら考えることにしたところで、書くことが思いつくわけではない。だからわたしは、日記をはじめたころの気持ちのまま、テクニックだけは最近のものをつかう。すなわち、昨日書いたことを思い出し、すこし発展させて、今日の日記にするのだ。

 

さて、昨日のわたしの精神はトンでいたから、内容は深掘りするに値しない。だから、今日書くことがあるとすれば、昨日の奇妙な体験を軽く分析してみることだろう。昨日は体調も悪く、頭も働かなかった。にもかかわらず、文章は普段よりはるかに書きやすかった。

 

いまのわたしだってそうまともに頭は働いていないから、普段のように、一文一文の無矛盾性に気を遣いながら文章を書くことはできない。だからわたしに出せるのは、筋が通らないかもしれないがとりあえず単純な説明だ。はたして、その説明とは。だれしも精神はまったく非論理的で、書くときはそれを論理という鋳型にはめている。だが昨日と今日のわたしにはその鋳型がないから、思ったことをただそのまま出力することができる。

 

さて、今日のような状態で出した結論がただしいとは思わないが、とりあえず、ただしいと仮定して話を進めることにしよう。こんな議論が数学で出てきたら、最終的にわたしの結論は否定されるという予告だが、今日はそんなことはない。普段のわたしは、論理という鋳型に思考を流し込む作業を、ほとんど無意識にやってしまっている。なぜならわたしの脳は、論理的に考えようと意図しなくても、可能なら勝手に論理的に考えてしまうようにできているからだ。

というわけで、鋳型に思考を流すことすら億劫なほどに狂的な瞬間にのみ、昨日や今日のような狂的な文章は書けるわけだ。いまのわたしは、狂気の瞬間に判断を下してはならないと覚えている程度にはまだ正気だから、昨日や今日の文章がはたしてよい文章なのかについては、判断は差し控える。だが酔っ払いあるいは二日酔いのわたしが、論理性という呪縛から解き放たれ、普段の日記ではできない体験をしていることは間違いない。

 

これは楽しい体験だから、可能ならわたしは、いつでも論理のスイッチを切れるようになっておきたい。もしその非論理性のツボを見つけ、わたしの精神が自力でイけるようになったのなら、それはすばらしいことだ。文章は、いろいろなものが書けたほうがいいのだから。

 

あるいはわたしは単に、論理に疲れているだけなのかもしれない。わたしは普段、残念ながら論理的だし、それを自分の長所だとすら思っている。だが論理は、論理的であることを正当化する論理をもまた作り出してしまう。だから、わたしは定期的に、昨日今日のように論理を捨ててみるべきなのかもしれない。なぜなら、論理の作り出した論理の誤謬に気づけるのは、論理を捨て去った瞬間だけなのだから。