狂気の体調不良

あまりにも急な秋の訪れに、近所の蝉たちは即座に全滅したようですが、人間のみなさまはおかわりなくお過ごしでしょうか。わたしは、しっかりと体調を崩しました。身体を流れる汗水を恐れてつけっぱなしにした冷房が、いまはわたしの鼻の孔から、絶え間なく鼻水を垂れ流させる結果となっております。

 

わたしは、自由な生活を送っておりました。ただひたすら家に引きこもることで、わたしはあらゆるものから逃げきったつもりでおりました。世相や人間関係はもちろんそうですし、法律や物理法則だってわたしには無関係です。ですがどうやら、わたし自身がホモ・サピエンスであるという事実から、わたしはまだ逃げおおせていなかったようです。

 

さて、そんなわたしの体調が悪かろうが、世間的にはなんの問題もありません。おなじ生物種であるということ以外、わたしは世間の人間と無関係だからです。ですが、わたし個人的には、風邪は問題です。それは風邪が、わたしの頭の働きを鈍らせるからです。

 

研究者としてやっている手前、わたしのもっとも重要な部位は頭です。たとえば足を骨折したところで、この生活ではさして問題にはなりませんが、頭が悪いとなれば話は別なのです。意識がもうろうとして、複雑なことがなにも考えられなければ、頭脳作業などすすむべくもありません。

 

意識がもうろうとしているとき、わたしの頭はおよそ想定外の挙動を見せます。体調が悪いなか、あるいは単に眠いなか書いた数学の証明は、たいてい、見返せばどうしようもなく狂っています。その狂い方は、たとえば車の方向指示器を出そうとしてワイパーを回した、といったありがちなものではありません。わたしはエンジンをかけるかわりにエアバッグを膨らませ、カーナビを起動するために電車用のパンタグラフを買ってくるのです。

 

この文章を書いているいまも、わたしの体調は変わらず破滅的です。寝るときに見る夢が、いつもめちゃくちゃなのと同じように、この文章だって、おそらく支離滅裂なのでしょう。いまのわたしは、わたしが狂っているかもしれないと疑える程度には正常ですので、その支離滅裂さを知っています。だからこそ、普段は使わないですます調などをつかって、尋常でないスピードで、脳がアウトプットすることばをただ書き連ねています。頭が使えなければ、かえって文章は書きやすくなるのです。皮肉な話ですね。

 

さてこういうときは、しらふではできない話でもすることにしましょう。年をとれば、頭の働きは鈍くなるといいます。絶好調な日は年に数度しかない、とも聞いたことがあります。だからもしかすると、この朦朧こそ、わたしの未来の姿なのかもしれません。

 

頭が使えるのを最大の売りにするひとにとって、それは恐ろしい話です。わたしのアピールポイントは、時が過ぎれば、完全に喪われてしまうことになるのですから。ですがいまは、その恐れと無縁です。なぜなら、頭が働かないいま、わたしは頭が働いている状況を想像しようとも思わないからです。

 

というわけで、わたしの未来は安泰です。この論理が崩壊していることに、わたしは薄々感づいていますが、それを修正しようという気はおきません。元気なわたしがあとから見返せば、狂ったわたしのあまりの気楽さには、もはや殺意すら覚えるでしょう。

 

ですが、それでいいのです。いまの狂ったわたしは、すくなくとも、狂っていないわたしより確実に幸福なのですから。