或る暗殺者の話 ①

最後の吐息が川面に消えるのを見て、ケイカは死体から手を離した。川の水で両手を軽くすすいで立ち上がると、街灯が河川敷に長い影を落とした。土手に上がろうとケイカがが歩き出すと、腰まで伸びるまっすぐな金髪が、消えることのない都心の灯りに妖しいきらめきを返した。

 

死体は、ケイカの実の妹だった。正確に言えば、さっきまで妹だったもの。人体をふくめ、生物の身体はすべからく、死んでしまえばただの肉の袋に過ぎない。だから、あれはまったく、妹なんかではない。すくなくとも、ケイカはそう信じて生きてきた。

 

イカは土手道へと上がると、ゆっくりと走り始めた。熱帯夜の都会にいてなお、髪が風に揺れる感覚は心地よかった。その足取りはきわめて自然で、すぐにケイカの姿は、日課のジョギングを欠かさないただの長身の女性にしか見えなくなった。もっともこれは、誰かを川に沈めたあと、ケイカが決まっておこなうルーティーンワークだった。こうすればケイカは、荷物も持たずに深夜の街をうろつくジャージ姿の妙齢の女性、としての不要な注目を集めなくて済む。

 

たっぷり三キロメートルほど川沿いを走ると、ケイカは走るのをやめて左に曲がった。繁華街へと歩きながら、ケイカはなるべく自然に、じぶんの呼吸の速さを確認した。うん、いつも通り。分かっていたことだったけれど、ある理由から、ケイカは自分がいつもよりすこしだけ安心したように思った。

 

そう。ケイカは今日、十年ぶりに自分の都合で人を殺した。対象がじつの妹だからと言って、特別な感情を覚えることなどないのだろう、そうケイカは長年の経験から知っていた。この仕事をはじめてから、ケイカは暗殺になにかを感じたことなど一度もなかった。スリルも、罪悪感も、殺人の背徳的な悦びさえも。

 

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イカがバーに入ると、マスターの笑顔がはじけた。どの客にも笑いかけるマスターだったが、ケイカにはただの客として以上の笑顔を向けていることに、彼女はずいぶん前から勘づいていた。カウンターの端にははじめて見る客がいて、ケイカをちらりと、しかし確実に見定めた。そうして卓上のウイスキーへと視線を戻したと思えば、彼はふたたび振り返って、ケイカを遠巻きに、遠慮がちに眺めた。ケイカをはじめて見る人には、よくある反応だった。

 

イカはこの店の常連だった。暗殺のあとでもそうでないときでも、機会があれば彼女はこのバーに立ち寄ってウイスキーをたしなみ――そしてすぐに出ていくのだった。最近のケイカは、もはや注文のために声を発することすらなかった――そんなことをしなくても、マスターはケイカの注文くらいわかっていた。

 

カウンターの端の客が二度目にケイカを見るころ、彼女の前にはすでにお決まりのショットグラスが置かれていた。おなじ客が四度目にケイカを見たとき、ケイカはもうそこにはいなかった。そのときレジには千円札が置かれていて、マスターがお金を取りにくる間もなく、ケイカはふたたび繁華街を歩き始めていた。

 

やっぱり、いつも通り。まるで事務連絡を確認するように、ケイカはただ呟いた。そう。つまり今日は、わたしの命日になる。

 

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サイコパスと呼ばれるのは慣れていた。

 

十年前、まだケイカが高校生だったとき。ケイカの学校には、皆が嫌っている厄介な生徒指導の教師がいた。ケイカはふと思い立つと、その教師の自宅の最寄り駅を調べて、待ち伏せして絞め殺したのだった。このときはじめて、ケイカサイコパスと言われた――死に際の教師の、最期のことばとして。

 

林に埋めた死体は見つかったが、すぐに別の女が逮捕されたから、ケイカが捕まる心配はなかった。そして一週間後、ひとりの暗殺者として、ケイカは八十幡組のテストを受けた。前から目をつけていた職だった――そしてこのあいだのことで、この職がわたしに向いているとも分かっていた。

 

テストの内容は、単純明快。組から言われた、特定の同級生を殺すこと。そう伝えられたとき、ケイカは心底驚いた。その同級生が、組から目をつけられたという事実に対してではない。天下の八十幡組のテストが、拍子抜けするほど簡単だったからだ。

 

本心から、ケイカは思わず言い放った。「それだけでいいんですか」

 

言ってから後悔したが、もう遅かった。周りのチンピラがとたんに色めき立ち、ケイカに罵詈雑言を浴びせかけた。だがケイカは動じなかった。たくさんのターゲットを暗殺して、たくさんのひとのありのままを見てきたいまのケイカには、当時のじぶんが特別だったと分かっている。だが、そのときのケイカはなにも思わず、ただただ憮然としてその場に立っていた。そうして立っているうちにチンピラの語彙力が尽き、同じ罵倒を三度目に繰り返しはじめたころ、幹部の一人が見かねて言った。

 

「簡単だと思う気持ちはわかるよ、お嬢ちゃん。でもそう息巻いたところで、意外とみんなできねぇんだ。だからそういうことは、じっさいに仕事を終えてから言うことだな」

 

イカには幹部の言葉がよく呑み込めなかった。あまりに呑み込めなくて、ケイカはあらぬことまで疑った――あの同級生、ああ見えて結構力があるのかもしれない。だがそれでもケイカは、黙ってその場を後にした――理解したからではなく、さっさと仕事に取り掛かるために。事務所を出るケイカの背後からは、チンピラどもの恫喝がまだ届いていた――そしてその頃のケイカは、そのチンピラどもがテストに落ちていただなんて、まったく思いもしなかった。