ケイカは工業地区へと向かった。都心からそう遠くないにもかかわらず、あたりは閑散として、まるでもう忘れ去られて何十年も経ったような雰囲気だった。工場の巨大な屋根が月を映し、まるで天を押しつぶしたような冷たい影で、不自然に太い道路に覆いかぶさっていた。
あたりを見回すことすらせず、ケイカはまっすぐにひとつの倉庫に入った。工場の生産縮小のおかげで数年前につかわれなくなり、がらんどうのまま放置されている倉庫だった。組での情報収集と、暗殺者としての長年の経験の蓄積から、ケイカはこういう倉庫をほかにいくつも知っていた。だれかを殺すにはもってこいの場所だった。
ポーチから縄を取り出すと、ケイカは手近な梁に架けた。首が通るくらいの大きさの輪っかを作ると、滑らかな手つきで縄を結んで輪っかを固定した。ケイカ本人が自殺を試みるのは初めてだったが、首を架けるための縄を結んだ回数は、もはや数えきれないほどだった。ターゲットの死体を自殺に見せかけるために、ケイカはこの手法を好んで使っていた。
ケイカはいったん縄から離れ、倉庫の内周を静かに歩いた。万が一、誰かに気づかれてはいないように。これまでの仕事の中で、ケイカの選んだ倉庫に誰かが潜んでいたことなど一度もなかったが、ケイカは念には念を入れていた。じっさい、気を付けすぎて悪いことなどひとつもない。ひとりを殺すより、次を殺すまで捕まらずにいることのほうがはるかに重要だ、これがケイカのポリシーだった。
ケイカは倉庫を一周し、縄のところへ戻った。問題、なし。やり残した仕事がないことは、すでに何度も確認していた。だから、ほんとうに、おしまい。ケイカは静かに台に乗ると、輪っかに首を通し……
ふと、かすかな違和感を覚えた。
死ぬのが怖いわけではなかった。ケイカほど多くを殺し、多くの死を見届けてきたひとが、いまさらじぶんの死など怖がるわけはない。違和感の正体は、もっと本能的なもの。張り詰めた空気の中でしか感じることのできない、ほんのかすかな心のざわめき。
誰か、いる。
誰か。
ケイカは縄を外すと、台の下に隠した。そして、ケイカが壁際に身を隠したその瞬間、倉庫の入口が怪しく光った。ケイカは耳をそばたて、倉庫に響く足音を聞いた。
……入ってきたのは、ひとり。おそらく、中肉中背の男。足取りは速くないし、わたしに気づいている様子もない。でも、こっちに向かってきている。
いつでも背後をとって絞め殺せるよう、ケイカはポーチから別の縄を出した。相手は一人だが、できれば殺さない方が無難だ。ケイカの首には何十億という賞金がかかっているから、背後に誰が控えているかなんてわかったものではない。だがそれでも殺さなければならなくなったのなら、最低でも、素早く済ませる必要がある。
男の持つ電灯が、男自身の足元を照らした。そうしてそのまま、上肢を、腹を、胸を。最後に照らされた男の顔を見て、ケイカはすべてを理解した。
組のものとは思えないほどに人懐こいその笑顔が、そこにはあった。
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テストが終わるとすぐに、ケイカは暗殺者の道を歩み始めた。初めて組に出向いたときにケイカを恫喝していたチンピラは、すぐに十ほども年下のケイカを畏れ、崇拝するようになった。それほどまでに、ケイカの腕は優れていた。
いつしかケイカは、組の中でもこう呼ばれるようになった――「サイコパス」と。一切の情を捨て、冷徹かつ確実に仕事をこなすケイカを、半ば恐れてのものだった。もっともサイコパスとは、おおかたの場合、合理的だという誉め言葉だ。そして当時のケイカにはまだ、サイコパスということばが自信につながる程度の感受性があった。
だが今となっては、ケイカはなにも感じなくなっていた。ケイカの初めての殺しの瞬間、あの教師の首を絞めていたとき、ケイカの心はわずかな高揚を感じていた。だがその高揚とは、もうずいぶん前から無縁だった。
だからといって、暗殺をやめようとは思わなかった。そもそもケイカは、快楽のために人を殺したことなどない。だから、殺しの瞬間がいかに空虚だろうが、それはまったく仕事に影響しない。
だがケイカは長いあいだ、あるひとつのことを見落としていた。暗殺者以外は、誰だって知っていることに。それは、人を殺さない理由がどこにもないのと同じように、人を殺す理由だってどこにもないということだった。暗殺者に向いているからといって、べつに暗殺者でなければならないわけではないのだ。
いつしかケイカは、暗殺をつづける目的を、あのときの高揚に求めるようになった。ケイカには暗殺をする動機も、しない動機もなかった。だが、あのときの教師の今際の際の「サイコパス」ということば、あれを再び聞けるのなら、暗殺を続けるほうを選ぶ理由になるような気がした。だがもちろん、普段の仕事で、そんな高揚が味わえるわけはない。
だから、ケイカは妹を殺した。
もっとも、妹を殺したところで、暗殺を続けるに足る思いが芽生えるなんてケイカはほとんど思っていなかった。ケイカ自身、親愛の情など理解したことはないのだ。だが、組での生活のなかでケイカは、どうやらひとは家族を殺したり家族を殺されたりするのを嫌がるらしい、ということを学んでいた。それならば、いちばん可能性のあるターゲットは実の妹だろう、ケイカはこう類推したのであった。
だがはたして、ケイカは動かされなかった。いっさい、まったく。
完全に、予想通りに。
だから。
だからケイカは、今日で終わりにすることにした。