テーマが見えてきた。どうして?

研究の評価はむずかしい。トップ会議に通っているような論文でも、もしわたしが査読していたらリジェクトと言っていたであろうものが大量にある。はんたいに、楽しく読ませてもらえる研究だって、かならずしもトップ会議には通っていない。

 

それで困るのは、他人の研究を査読するときではなく、むしろ自分が研究するときだ。他人の研究すら評価できないのだから、自分の研究はなおさらである。完成させた論文ですら、それが果たしてコミュニティに受け入れられるのかどうか、わたしにはさっぱり見当がつかない。

 

研究テーマを決めるとき、状況はさらに悪い。論文の完成形すら評価できないのに、通る研究をやりたければ、目の前の問題を解いてできるであろう架空の論文を評価しなければならないのだ。だから、わたしに研究テーマは選べない。たとえその架空の論文が素晴らしく、新たな分野をいちから築き上げるようなものだったとしても、わたしがわたし自身でそう気づけない以上、その架空の研究はなされようがないのだ。

 

それでも論文は書かなければいけない以上、わからないと言ってごまかし続けるわけにはいかない。ではどうするかというと、人に頼るのである。世の中には、わたしと違って研究を評価できるひとが、すくなくともそう自分では思っているひとがいる。そういうひとと話せば、そういうひとにテーマをもらえば、すくなくともわたしがあてずっぽうに選ぶよりはまともなテーマが選べるはずだ。何年か研究をやってみた結果、わたしはそういう算段で動くようになった。

 

さて、ここでひとつまったく別の話をしよう。最近、わたしはある大喜利のサイトで遊んでいる。一定時間おきに出るお題に答えて、互いに評価して、もっとも評価されたひとが勝ち、という単純な仕組みのやつだ。

 

始めたてのことはひとつ勝つだけで嬉しいものだから、今日ははじらいもなく、わたしが勝ったときの答えを紹介しよう。こんなことをすれば黒歴史になるに決まっているが、浮かれてはしゃげるのはいまだけなのだ。以下がお題と答えである。

 

お題: 「まだ誰も気づいていない炊飯器の隠し機能とは?」

回答: 「全ての月の誕生石を兼ねている」

 

さて、あなたが笑ったにせよ笑わなかったにせよ、次の瞬間には、あなたはこう思っていることだろう。「これ、なに?」

 

まったく無理もない、いや、当たり前の反応である。回答者のわたしでさえ、この回答がいったいなんなのかはぜんぜんわからないのだから。いや、正確に言えば、文字通りに理解するのは可能だ。炊飯器が、じつは全ての月の誕生石を兼ねているが、それにはまだ誰も気づいていない。わからないのは、そのほかのすべて。なぜ炊飯器が誕生石なのか、そもそも誕生石であることに気づかないとはどういうことなのか。炊飯器と誕生石は、大きさから機能から何から全然異なるし、誕生石は、ひとがそうと決めないと誕生石にはならない。

 

にもかかわらず、わたしはこの突拍子もない回答を投稿し、そしてコミュニティはこれを評価した。大袈裟に言えば、このお題に関して、わたしはコミュニティの求めるものを、わたしの感性のみで理解することができたのだ。まったく理屈が分からないまま感性だけで疾走することばを、わたしはなぜだか乗りこなすことができた。

 

さて、話は最初へと戻る。もし、わたしが今回のような感性を、研究でも発揮できたのならば。よいとされるテーマのよさを、理解するのではなく感じられたのならば。テーマ選びに苦しむことは、めっきり減ることだろう。

 

わたしがほんとうにそうなれるのかは、もちろん分からない。すくなくとも、なぜ炊飯器が誕生石だと面白いのかが一切ことばにできない以上、笑いのテクニックをそのまま流用することはむずかしそうだ。でも、もしかすれば、この謎の笑いの方向に、ひとつの答えはあるのかもしれない。