魅惑と盲目と錯覚と

三日間の学会が終わった。五年前にはじめて参加して、感銘を受けた学会。その頃なら、わたしは期待と焦燥がないまぜになったような、えもいわれぬ精神状態に陥っていたことだろう。

 

すこし時をすすめ、三年前のわたしの立場で想像してみよう。三日間で扱われたみっつの分野は、どれもそれぞれに魅力的で、人生を捧げてもよいと思わせるだけの光を放っている。わたしが真剣に手を伸ばせば、おそらく手の届く光が。にもかかわらず、わたしはどれにもまったく詳しくない。そして悪いことに、光はけっこう遠い。

 

わたしは思う。勉強を超えた先には、約束された栄光の境地がある。だがその道を歩んでいくだけの我慢強さは、わたしなんかに発揮できるのだろうか? 結局わたしは、何の光も見ないまま、この場で立ち止まって一生を終えるのではないか? こんなことを考えて、わたしはよく将来に不安を抱いていたものだ。

 

さて、早いものでわたしはもう博士一年である。わたしはもはや、なんにでも心を揺さぶられるほど多感ではない。この学会に出るのももう五回目だし、そのほかにもいろいろな研究の話を聞いてきたから、すべての分野に惹かれたりはしない。惹かれる話はあるが、惹かれない話もある。冷静で、身も蓋もない精神状態。

 

わたしはふと、はるかに多感だったころを思い出す。中学生の頃、わたしは数学の部活に所属していた。この変わった部活に奇妙なところはいくらでもあるが、そのうちのひとつに、文化祭の打ち上げの晩、みなで神保町の古書店に出向いて数学書を買いあさるという奇習があった。

 

中学二年生の頃、わたしはある古書店に入り、先輩にすすめられるがままに群論の本を買った。その本はとても平易で、意欲ある中学生にも読めると書いてあったかどうかは定かではないが、とにかくじっさいに中学生が読める代物だった。

 

調子に乗ったわたしは翌年、文化祭の片づけを終えると本屋についていき、ガロア理論の本を購入した。昨年の本に、群論の先に進むならこれだと書いてあったのだ。たしか、『数学ガール』かなにかのおかげで流行っていたようにも記憶している。とにかく、わたしはその黄色い本を毎日持ち歩き、授業中もかまわず読みふけっていた。

 

結局、わたしはその本を理解できなかった。その本は線形代数を前提知識にしていたが、わたしは線形代数を知らなかったし、あまりに何も知らなかったわたしは、分からないのが線形代数を知らないせいだということにも気づかなかったのだ。

 

振り返れば当時のわたしは、ただ精一杯に背伸びをしていただけだった。今でこそ、わたしはそう知っている。だが当時、わたしは真剣にその意味不明な本が大好きだと思っていたのだ。さらに悪いことに、わたしは見せびらかすようにその本を読んでいたから、クラスメイトだって、わたしが現代数学好きだと思っていただろう。ガロア理論とはなにかなどとはたびたび聞かれたし、わたしは得意げに受け売りの説明をしていたものだ。

 

話を戻そう。今年のわたしにはもはや、どんな分野にでも感銘を覚えるような初々しさはなかった。わたしのモチベーションの種をつとめてきた学会特有のあの焦燥感は、もはや役目を終えてしまったようだ。だからある意味、わたしにとって、学会の重要な意味がひとつ、たしかに失われたことになる。

 

だが、おそらくこれは成長なのだろう。なにかに期待しないことができるのは、ほかにもっと面白いことを知っているからだ。なにも知らなかった中学生のわたしが、分からないガロア理論を好きだと錯覚したのとは対照的に。そう。魅力的ではない分野があるということは、裏を返せば、わたしが熟練してきたということなのだ。