巨人の足元で花を摘む

科学を学ぶことは、科学の歴史の追体験だと言えるのかもしれない。義務教育で、わたしたちは古代ギリシアで発見されたような古典的な結果を学ぶ。高校や大学の学部で、わたしたちは近代科学のおままごとを始める。そうして学年が上がるごとに、わたしたちは科学の先端へと近づき、最終的には特定分野のマニアックな概念を学ぶことになる。

 

それなりに成熟した分野において、最先端の研究はもはや、複雑なコンテキストのキメラ体である。「巨人の肩の上に立つ」とは、発展した科学を土台にしてつぎの進歩を目指すことの比喩だが、その肩は絡まり合った糸と触手の集合体だ。「巨人の肩」と聞けば、さぞ心地よく見晴らしの良いことだろうと思うが、現実は見晴らし以前に、足元すらなかなかおぼつかない。

 

そんなガタガタの肩の上での研究の意義は、現役の研究者にすらなかなか分かりにくい。研究の具体的な中身に至っては、もはや言うまでもないだろう。ものによっては、もはや理論がコンテキストを離れて独り歩きして、もはやだれのためなのかも、何をしているのかも一切分からない状況にすらなっている。

 

さて、そういう『理論のための理論』も面白いのだが、どうやらそれはあまりわたしの好みではないようだ。そうなってしまった分野は、もはや何をすればいいのかさっぱりだ。特定の概念を別のなにかと機械的に組合わせることはできても、はたしてそれが「有意義」なのかまったく判別できない。トップ会議の論文にすら、まったく屁理屈にしか思えないものがよくあって、中身を全部読んでも、賞賛されるべき研究と唾棄すべき研究の区別がつかないのだ。

 

反して、わたしが好きなのはどうやら、モチベーションも中身も簡単な研究なようだ。もしお昼のお茶会のかたわらに講演があったとしても、問題なくすべて理解できるような。学者たちは難しく絡み合った理論を「深遠」と表現するが、わたしにとってはどうやら、深遠さは悪らしい。

 

わたしのこの態度は、科学の発展に真っ向から反する。科学は巨人の肩を、より高く盛り上げようとしている。翻ってわたしは、たとえるなら、巨人を頭上に眺めながら、その足元でお花摘みをしているようなものだ。

 

さて、昨日の日記に立ち返ろう。科学少年であったわたしは、わかりやすくセンセーショナルな結果に惹かれて科学の道を選んだ。そして、いまだって、そういうわかりやすい結果を求めている。

 

初心を忘れていないと言えば聞こえはいい。もしそれで実際にテーマが思いつくなら、我が道をゆけばよいだろう。だが結局、わたしがなにを研究すればよいのかはわからないままだ。そう。おそらくは、わたしはいまでもたぶん、職業科学者になり切れないまま、ただ大きくなっただけの科学少年なのだ。