『矛盾三定理系』に関する中間感想

もし、ほかのすべてとおなじように、数学が矛盾していたら。そして、そうみなが知ったまま、それでも世界はふつうにまわるとしたら。そんな世界をふと思いついて、この九日間想像して書いてきた。

 

想像すると言っても、われわれの世界とこの世界のことなる点は、単に数学が矛盾しているというだけだ。世界はもちろん数学だけでできているわけではないから、この世界は、なんだかんだでわれわれのものと大きく変わらないだろう。数学にふかく関わらないかぎり、そんな世界で書かれる文章も、おそらくわれわれの読んでいる文章と大差ない。

 

だが、数学に関する文章だけは、おそらくおおきく変わってくる。わたしが書いてきたのは、数学が矛盾したパラレルワールドで、数学に関して書かれているであろう文章の数々だ。

 

最初の三日、わたしはある架空の論文の査読コメントを妄想した。数学が矛盾しているなら、われわれのものとはことなる基準で、論文の採択は決まることになるだろう。次の三日は、数学の架空の質問スレッドに、何人かの登場人物がコメントをつけた。数学が矛盾しようがしまいが、匿名のスレッドは攻撃的でウソだらけだろうが、そのウソの中身は変わってくるはずだ。最後の三日は、子供向けの科学雑誌のコラムだ。数学の矛盾に関して、この世界には、われわれのものと異なる歴史のストーリーがある。

 

さて、こうして妄想を書き連ねてきたが、わたしがやったのは、ただこの世界で書かれうる文章を書くことだけだ。もしこの架空資料集を小説と呼ぶのであれば、この小説にまだ話の流れはない。一万数千字をかけてわたしが書いたのは、ただ、「この世界では数学は矛盾している」ということだけ。

 

もちろん、話を動かす気がないわけではない。最初の数千字を書いて力尽きたかずかずの小説もどきのおかげで、わたしは、書く前にあるていどのストーリーを決めるべきだと身をもって学んできた。今回とてまったく例外ではなく、今後の展望は、いちおう、ある。

 

それでもまだ話が動かないのは、わたしがこの世界を理解するためだ。わたしが最近学んだもうひとつのあたりまえの事実、それは、もとの世界がどうだったか知らなければ、世界は動かせないということだった。

 

世界を想像するには、そのための問いが必要だ。数学が矛盾するなら、それは市井の人にとってなにを意味するか。ほとんどのひとにとって、数学は大学受験の科目のひとつにすぎないから、受験で何が起こるかを想像すればよいだろう。数学が矛盾するなら、それは他の科学とどうかかわりあうか。物理学が矛盾する公式をつかえば、現象にふたつのことなる予測が成立するだろう。では、その予測のうちのどちらを選べばよいか? ほかにもいろいろな問いがあるだろうし、問いに答えるかたちで書ける文章があるだろう。問いの数だけ、この小説は長くなっていく。

 

さて、ここでひとつのすれ違いが発生する。ほんらい、小説とは読者に読んでもらうものだ。わたしのつくった世界を、わたしが理解するためにあるのではない。それなのに、わたしがわたしのために書く文章を、そのまま小説だと言い張ってよいのだろうか?

 

自分から問うておいてなんだが、わたしはこの問いを、とくにわたしへの批判だと思うつもりはない。世界はひとことで書きあらわせるものではないから、たくさん書かなければ伝わらない。そして、すくなくとも、作者が理解できない量の記述では、とても読者に伝わるわけはないのだ。