数式についていけない世界線

よい話し手は、聞き手がわかりやすいように発表を磨き上げる。わずか数分から数時間の持ち時間はどう割り振ればよいか。何を話して、何を話さなければ、聞き手の興味を掻き立てられるか。どうすれば、聞き手を飽きさせず、ときには笑わせ、寝かさないことができるか。よい発表は、話し手の工夫の結晶である。

 

それでもなお、人の発表を聞くのはむずかしい。たとえ話し手が一言一句に気を遣って発表をつくったとしても、聞き手はそのとおりに聞き取ることはない。話されているテーマに、聞き手は話し手ほど詳しくはないから (もし詳しければ、聞く必要などないだろう!) 、聞き手は話し手の境地には達せない。そもそも、聞き手は話し手と違って話しておらず、ただ黙って椅子に座っているから、意識は何倍も飛んで行きやすい。

 

そして、もっとも聞くのが難しいのが数学の発表だろう。数学は積み重ねの学問だから、発表も必然的に積み重ね式になる。とりわけ、数式を扱っている場面。式変形を理解できなければ、定義をひとつ聞き逃せば、その抜け漏れが最後まで尾を引くことになる。

 

数学をしていれば誰しも経験したことのある例をあげよう。発表者が、ある変数、たとえば x について話している。聞き手のあなたは、定義を聞き逃したせいで、x がなんなのか分からない。

 

聡明なあなたはふと、発表スライドが配られていると思い出した。さて、ページをめくって x の定義を探すと、それはべつの概念 P に依存していた。P の定義を探し、あなたはようやく x がなんだったか理解する。あるいは、理解を諦める。いずれにせよ意識を戻すと、話し手はまだ x の話をしている。だが、あなたの頭脳をもってしても、やはり話は理解できない。調べている途中にされていた話を、すっかり聞き洩らしてしまったからだ。

 

わたしももちろん、そんなことばかりだ。数式が出てきた瞬間に脱落し、あとはただスライドの奥の虚空を眺めて過ごす。いつのまにか意識は飛んでいて、首がかくりと折れる衝撃で目が覚める。まあ、最近はオンラインだから、首は折れる前に枕の上である。

 

さて、ひとつ問題提起をしよう。数式がかくも理解しにくいものならば、なぜ数学の発表には数式が現れるのだろうか。それには、いくつかの理由が考えられる。

 

ひとつ、話し手に伝える気がない。

ひとつ、話し手が聞き手を過信しており、数式を理解してもらえると思い込んでいる。

ひとつ、話し手は聞き手を理解しているが、数式を使わないストーリーが思い浮かばなかった。

ひとつ、そもそもこの日記の内容はすべてわたしの妄想にすぎない。数式が追えていないのはわたしだけで、ほかのみんなはついていけている。

 

それぞれの理由についてみていこう。ひとつめは、単に話し手の問題だ。ほとんどの卒論発表にこの傾向がみられるのだが、発表に慣れていないと、とりあえず内容を詰め込むだけで精一杯になって、聞き手のことなど二の次になってしまうのだ。

 

ふたつめとみっつめはおなじようなものだ。すこしでも伝える気があれば、過剰に複雑な数式は控えるはずだ。だからこのふたつを分けるのは、どの程度の数式なら分かってもらえると思っているかの閾値にすぎない。

 

そして、よっつめこそ、わたしがこんなものを書いている理由である。もしよっつめがただしいのならば、わたしは聞き手としてではなく、話し手としても失格だということになる。なぜなら、話し手としてわたし自身がなるべく理解しやすい発表を目指すという方針が、まるっきり使えないことになってしまうからだ。

 

わたしは数式をスムーズに理解できるひとの気持ちがわからないから、この世界はよっつめではないと信じている。でも、よっつめはただしいのかもしれない。理解というのは主観に過ぎないから、ほかのひとがどんな発表をどれだけの細かさで理解しているのか、わたしには一切見当がつかないのだ。

 

だから、もしこの世界はよっつめで、わたしが数式を嫌いすぎているだけだと思うのなら、わたしにそう伝えて欲しい。そして、できるなら、あなたがなにを理解しやすくてなにを理解しにくいのか、あなたが世界をどう理解しているのかを、わたしにもわかるように教えて欲しい。それがあなたの役にたつかはわからないけれども、すくなくとも、わたしはそれを求めている。