集中力を奪うもの

日本に帰ってきて、だいぶ落ち着いた。ぐっすりと寝て、これでもう生活は元通りだ。

 

ドイツに行っていたのは学会参加のためだ。論文を一本通しており、それを発表した。発表そのものについてはまあいつも通り、それなりに上手く行ったという感想しかない。つまりは要するに、英語に詰まってグダグダになったりはしなかったという意味だ。質問が聞き取れないことに関しては、今更もう諦めている。

 

しかし学会の主目的は発表ではない。正確に言えば、主な時間の使い道は。発表はたかだか二十分、それ以外の時間はもちろん、ほかのひとの発表を聴いている。そしてどんな研究がいま盛んなのか、どんな面白い問題があるのか、その具体的な流れをつかむ。ちなみに学会参加の理由を「発表」とだけ書くと、所属機関によっては発表している時間ぶんの日当しか支払ってくれないみたいです。「発表および情報収集」と書けば大丈夫らしい。情報収集のために論文を通していない学会に行くことは稀なのに、まあ言葉の綾ですね。

 

閑話休題

 

思えばああして、大勢に向けられた英語の話を対面で聞くのは久しぶりだ。日本語では二か月くらい前にあったが、まあそれも一度だけだ。三年前にはそんな機会はいくらでもあったが、まあ世界のほうが変わってしまう分にはどうしようもない。とにかく、ああいう話を聞くときの態度をわたしはあまり思い出せていない。

 

この二年半の期間は、ひとの話を聞くという行為の難しさをわたしに忘れさせていたようだ。いや、聞けないものだという認識は維持してはいたものの、現実に前にいるひとの話を聞くという行為がどういう感じだったのかまでは覚えていなかった。授業で、輪講で、学会で。三年前は日常的に感じていたはずの、あのふっと魂が抜けていく感覚。

 

それにしてもわたしが感じたあれは、三年前のわたしが感じていたものと同一だっただろうか? よく分かるし面白いいくつかの発表をわたしはちゃんと聞いていたけれど、それ以外の時間の感想は? 難しすぎたり字が小さくて見えなかったり問題設定を聞き逃してなにも分からくなった無数の発表の間、感じていた退屈と眠気と自己嫌悪は?

 

この日記をはじめたせいかは知らないが、わたしはいろいろなことを考えるようになった。その過程で何度も、よい発表とはなにかということについて考えてきた。実際にそのテーマは、日記にも何度も書いてきた。あるいはあえて書かないにしても、わたしには無数の一家言ができた。

 

それらの一家言たちはもちろん、実際の発表を反面教師にしてつくりあげたものだ。当然、現地に行けばたくさんの「良くない」発表がある。オンラインなら単に音量を下げてツイッターでも眺めていればいいだけだが、オンサイトではそうはいかない。発表がわたしの指向に沿わなかったとしても、聞かなければならない。

 

けれどまあ、なかなかにそれは難しいわけだ。あの発表はこの点が悪いということを明確に言語化できていながら、あえてそれを聞き続けようとするのは。自分の発表を良くするための指針たちが、他人の発表に集中しないことを正当化する。

 

それではいけないとは思っている。けれど、どうしようもないかもしれない。面白い発表なら、聞ける。それにひとの話を聞けないのは、べつに今に始まったことではない。