手に負えない長さ

 引き続き博士論文を書いている。事前に予想していた通り、あまり楽しい作業とはいいがたい。

 

 楽しくないので手の動きは遅くなるが、それでも一応、なんとかやめずに進めてはいる。自分で言うのもなんだが、わたしはこういうことについては意外にも責任感があるというか、途中では投げ出せない性質なのだ。博士号なるものになんらかの価値があるとは思っていないから、やめてしまえば博士が取れないということについてはそんなに恐れていない。それでもなぜだか、やることを一度運命づけられてしまえば、あとはだらだらと続けてしまう。

 

 というわけでわたしはいま面白くない毎日を過ごしているわけだが、そのことに関して文句を並べるつもりはない。博士論文審査という仕組みは非合理的だと思うけれど、それに関してもいまさら異を唱えようと思えない。わたしは地に足をつけて現実を直視せねばならず、そしてその現実とは、博士号というよくわからないもののためにわたしはこのつまらない作業を続けており、なおかつわたしにはそれをやめるだけの勇気も甲斐性もない、という個人的な性格の問題である。

 

 とはいえ。この日常に文句を言うことに意味がないからと言って、それを分析することそのものが許されないわけではなかろう。つまらないと喚いてもなにも起こらないとわたしは知っているが、それでもつまらないものはつまらないのだから仕方がない。目の前につまらないなにかがあるのだとしたら、それを解消しようと努力するかどうかはさておき、とりあえずなぜそれがつまらないのかを言語化するくらいはしてみたい、ともまた思うのである。

 

 博士論文が面白くない理由にはいろいろあるが、そのひとつは作っている文章が長すぎることにある、とわたしは思う。博士論文の執筆とは、既存の論文を切り貼りしたうえで修正し、まとまったストーリーに仕立て上げる作業になるわけだが、そもそももとになる論文たちはめいめい、ぜんぜん違った文脈で書かれている。そしてそれらをまとめると百ページを超えてしまうから(越えなければならないのだが)、全体のバランスを取ろうにも、一息で把握できる分量ではない。博士論文とは文章ではあるが長編であり、短い文章しか書いてこなかったわたしにとって、その量の文章を扱うのは未知の経験である。短編小説をたくさん書いてきた作家も、長編を書くのにあたってはまた一枚の壁があると聞くが、きっとそれと似たようなことがいま、わたしの身に起こっている。