学ばない初学者

わたしは意地っ張りだから、定跡とされている方法に従ってものごとをはじめるのを潔しとしない。先人たちが整備した道はいったん無視して、まずは自分で手を動かしてやってみる。間違いなく回り道なのは分かっているけれど、一度自分でたしかめてみなければ気が済まない性格なのだ。

 

その態度には一応、いいところもある。より皮肉的な言い方をすれば、いいところもあるのだと言って自分を納得させられる程度には正当化ができる。定跡をただ覚えるだけでは、定跡から外れた状況には対応できない。定跡がなぜ定跡になっているのかを学ばなければ、定跡を学んだとは言えない。そしてそれを学ぶためには、定跡以外の方法をいちいち検討してみて、どこが劣っているかを確かめてみるしかない。そういうふうな合理化は、たしかにできる。

 

分野によっては、それはいい態度だ。基礎的で単純なものを扱うのであれば、そうやってゆっくりと着実に学びを進めても間に合う。というか、まったく学ばなくても寄り道だけで研究になる。けれどより応用的なものを扱う場合、そんなことをしていては埒が明かない。進むべき距離が長いのなら、寄り道などしている場合ではないわけだ。

 

研究はおそらく、ふたつの中間にある分野だろう。つまりはすべての可能性を検討していても追いつける分野と、先人の知恵をアプリオリに受け入れるべき分野との。わたしは前者の態度を好む人間だから基礎的な研究しかできないけれど、一応それでもなんとかはなっている。基礎研究は天邪鬼にもやっていける分野ではあるということだ。

 

けれど学会に行くと、後者的な研究は同じ分野にもある。たくさんの難しい既存研究を組合わせてできているそれらの研究は、自分のわかる範囲で手を動かしてできたとはとても考えられない。ひとりの力ではとても作り切れないばかりかただ理解するのにすら長い時間がかかると思われる規模の流れの中に、みずからを位置づけている。話を聞いてもちんぷんかんぷんだし、学んでみたいとも思えない。なぜならその高みは、寄り道を続けていてはけっしてたどり着けない場所にあることが明白だからだ。

 

そういう研究をするひとたちはきっと、整備された知の高速道路をひた走ることに抵抗がない。最初から巨人の肩に乗っていることをむしろ喜ばしく思うのだろう。よく言われるように、車輪の再発明を彼らは嫌う。高速道路を無視して下道を走ることを、彼らはきっと無知蒙昧ないとなみだと考えている。

 

正義は残念ながら、彼らの側にある。学ぶこととは正義であり、より多く学ぶことはより大きな正義だからだ。なにか目標をきめて、そこまで一直線に学び続けること。それをわたしはできないし、しない。

 

わたしは学ばない。学ばずに、まず手を動かす。先人がすでに通った道であることを知ったのなら、その道を追いかけようと努力するのではなく、一足遅かったと言って引き返す。それで論文が出なくなるならわたしは改心するだろうが、残念なことに、なぜだか論文は書けている。