矛盾三定理系 第八話 『月刊こどものサイエンス』誌 10 月号・科学史コーナー ②

ウムラウフの理論はすばらしいものでしたが、そのせいで、彼の論文の一節はおおきな注目をあつめることになりました。かれは、こんなふうに書いていました――「理論の展開にあたって、もうひとつの公式を検討した。しかしその公式は、物理学の手によって、まったくのあやまりだということがはっきりと示された」と。言うまでもなく、これはレーベルの実験において、針が右にふれると予言した公式のことでした。

 

いまとなっては、ウムラウフが言いすぎだったことにうたがいの余地はありません。しかし当時のひとたちは、『右公式』がほんとうにまちがいということになるのではないか、と本気で心配しました。当時の科学者たちの名誉のためにつけくわえておけば、数学が矛盾していることは、すでにみな知っていました。しかし、それがじっさいの物理現象にかかわってくるとは、だれも思っていませんでした。その当時、物理学が数学をつかうことはあっても、数学が物理学をつかうことはなかったのです。

 

さて、ひとたび疑問におもえば、科学者たちは納得するまで気がすみません。物理学の実験の結果ははたして数学の公式をまちがいだといえるのか、そんな議論が、ヨーロッパのいたるところで起こりました。レーベルをふくめ、物理学者の半分くらいは、『右公式』はまちがいだと断言しました。数学者の多くは、『右公式』はまちがいではないという立場でしたが、ウムラウフはその例外でした。ウムラウフは友人の心理学者、クリストフ・フォルマーを味方につけると、『右公式』をただしいという数学者たちを相手に、すさまじい論戦をくりひろげました。

 

ウムラウフとフォルマーはまず、当時の数学者たちを「あたらしい科学の成果を認めない原始人」と攻撃し、数学という学問じたいを「不確かな直感にもとづく原始人のおままごと」と呼んで批判しました。そのうえで、「『右公式』などのまちがいを数学から取り除くことは、物理学だけではなく数学にとってもよいことである」と、数学者たちを真っ向からあおりたてたのです。

 

こんなに言われてしまっては、数学者たちはカンカンです。じつのところ『右公式』は、中学校の教科書にものっているほど、有名でよくつかわれる公式だったのです (『右公式』のほんとうの名前については、ぜひきみ自身でしらべてみてください!)。ウムラウフの同僚、ゲオルク・ティルピッツをはじめとする数学者たちは、「それが数学であっても物理現象であっても、とにかくたったひとつの矛盾だけで、数学の公式をまちがいということはできない」として、ウムラウフたちに反論しました。

 

ウムラウフとフォルマーはもちろん、これくらいの反論は予想していました。ウルフラムはまず、レーベルに手紙を送り、例の実験装置を数学者にもわかりやすいように改良してくれるように頼みました。その手はずがととのうと、ウムラウフはドイツ国内のほぼすべての大学に、『右公式』がまちがいだと証明する公開実験をミュンヘンで行う、と書かれたビラを送りつけました。そのビラの何枚かはまだ現存していて、ミュンヘンの科学博物館で、だれでも無料で見ることができます。

 

心理学者のフォルマーは、「数学のもとになっている直感は、時代とともにうつりかわるものだ」と言って、数学者が考えを変えるべきときだと主張しました。かれの言葉を借りれば、「いま、地球がまわっているとみなが直感しているように、『右公式』がまちがいだとみなが直感できる日がくる」とのことです。じっさい、ウムラウフにとっては、これはまぎれもない真実だったようです。レーベルの記録には、「ウムラウフはあの実験をみて、『数学とは、かようにかよわい直感のうえに成り立っているのか』と叫び、『右公式』のまちがいを即座に理解した」と書き残されています。

 

フォルマーの主張にはあるていどの説得力があり、またウムラウフのビラもよいできだったので、ミュンヘンにいるレーベルのもとには、ぜひ実験を見たいという申し出が数多くやってきました。『右公式』はまちがいだとみなが思っていたわけではありませんでしたが、もしウムラウフのようにまちがいを直感できるなら、それはとても興味深い話でした。しかし、実験はついにおこなわれることはありませんでした。さて、どうしてでしょうか?

 

レーベルが装置を完成させられなかったから? いいえ、違います。レーベルは、最高の装置をつくりあげていました。誰も実験を見にこなかったから? いいえ、実験のあるはずだった日のまえの日には、すくなくとも三十人もの数学者がミュンヘンに向かったという記録が残っています。だれかが妨害して、実験をさせないようにした? それも違います。同僚のティルピッツはたしかにウムラウフをきらっていたようで、じっさいにいろいろな批判をしましたが、武力をつかうことはありませんでした。

 

さて、実験は、レーベルとウムラウフのように、あたらしい議論をまきおこすだけではありません。はんたいに、実験は議論を終わらせることもあります。そうです。真の理由は、ティルピッツがかんがえた実験にあったのです。