Re: 意味という茶番

理論研究は、無意味だ。役立たずだ。

 

それでも一部の研究者は、無意味の中に意味を見出そうとする。結局役には立たないという大元の理屈を無視して、無意味と無意味の間の意味を比べ続ける。私には、この茶番に耐えきれる自信がない。

 

彼らは、彼らの思う意味に沿った話を要求する。彼らの感性を理解しない私は、彼らを模倣して話すしかない。理解の浅さを突いた追撃を、私は縮こまりながらどうにかやりすごす。

 

かくして私は防戦一方になる。私はこれに耐えきれるだろうか? 耐えきる覚悟をしてまで、残るべき業界だろうか? 私は守り、耐え続け……

 

違う、そうじゃない。それはもうこりごりだ。

守るのに疲れたのなら、

私が、攻める側に回ればいい。

 

彼らの語る意味は共感不能だ。それなら、こちらからも、彼らに共感不能な意味をぶつけてやるのだ。私は彼らの土俵では戦わない。私は彼らの語る意味を否定し、彼らは私の語る意味を否定する。目には目を、詭弁には詭弁を。ノーガードの殴り合い。議論は永遠に平行線をたどり、対等な関係が実現される。

 

さて、そのためには、私が語る意味が必要だ。なんだっていい。結局意味なんてないのだから、何を語ってもいいのだ。戦いのための論理、議論を拒否するための論理。唯一の要請は、私が語れることだ。

 

では、私は「簡単であること」を意味だと定義してみよう。しっくりくる詭弁、私が私に騙されそうになる詭弁。「研究が応用されるには、他の研究者に理解されることが不可欠だ。理解が簡単なら、より多くの研究者がその考え方を吸収するだろう」……意外と悪くないレトリックじゃないか?

 

ひとまずは、これで戦ってみよう。どんなに有名な問題が解けようが、簡単でなければ無意味だと主張しよう。彼らの神聖視する深遠な理論を、その深遠さゆえに否定してやるのだ。