唯物論的無意味

いまとなっては若気の至りとしか言いようがないが、森羅万象は科学で説明可能であると、わたしにも信じていた頃がある。

 

唯物論。すべては物質でできているのだから、物質のふるまいとして説明がつくという考えかた。物理学者の少なくない割合が持っている世界観で、かれらは自由意志だとか、感情だとかの存在を否定する。それらはあくまで脳という器官の活動、ニューロンを流れる電流の多寡に過ぎず、したがって突き詰めて考えれば、結局すべては物理学だ、という論理だ。

 

もちろんのこと、物理がそういう複雑な機構を説明できたためしはない。当たり前だ、それならば科学も生物学も不要になってしまう。そもそもの話、たかだか数十個の粒子でもうシミュレータの力を借りはじめるような体系が、人間の脳やニューロンをまともに「説明」できるはずがない。生物学はなんらかの説明を与えることができるし、それはそれなりに分かりやすいわけだけれど、あの粒度の説明をもって、物理的説明がなされたと呼ぶ物理学者はいないだろう。もちろん彼らがそんな簡単なことを分かっていないわけはなく、要するに彼らが「説明」と呼んでいるのは、人間が読んで分かるような単純な解説のことではないわけである。

 

すべては物理だと彼らが言うとき、彼らは暗黙裡に、無限の解析的計算力を持つなんらかの存在を仮定している。そしてそういう存在にとってみれば、系のなかの全粒子の活動をすべて完全に追いかけることで、その系のふるまいを完全に予言できる、と彼らは主張しているわけだ。

 

その主張が間違いだとはとうてい言うまい。超自然的な力だとかそういうオカルトなことを、わたしは信じるものではない。だが、無意味だと言い返すことはできる。無限の解析的計算力を持つ存在など存在しないし、かりに存在したとして、すべてを計算するといういとなみはべつに、理解と呼べるようなものではないからだ。

 

とはいえその無意味さに気づくのに、わたしはずいぶん時間がかかった。原理的に説明しえないことこそ世の中になくとも、ありうるすべての説明があまりに複雑すぎるものはいくらでも存在するのだと、わたしは理解していなかった。そして同じことが、物理学だけではなく情報科学に対しても言えるということにもまた、最近まで気づいてはいなかった。

 

情報科学は人類が作った体系である。自然界にコンピュータはないからだ。そして人類が作った体系のうえで起こっていることは、おそらく最近までの数十年間、人類が説明できることでもあっただろう。機械になにかをさせるときわたしたちはプログラムを書くわけだが、プログラムとは指令書であると同時に、これから起こそうとしていることの説明の記述でもあったはずだ。

 

だが最近、機械は人類文明の持つあいまいさの領域に進出した。言語を自在に操り、絵を自在に書けるようになった。機械の中で起こっていることを説明するということは、おそらくはそのまま、人類のいとなみを説明することとほとんど等価になった。

 

そして。そういうものは説明しても意味がないのだと、若くないわたしはもう知っている。