書くことによる変質

書くとは、自らを整理する作業だ。

 

整った文章には型がある。注意を引く書き出しが必要だし、背景説明を入れるべきは序盤だ。論理の発展と転換を経て、最後にはひとひねり加えた態度を示さなければならない。論理展開の緩急で表現される、一貫したストーリー。書くとは、思考を文章の型にあてはめていく作業だ。

 

残念ながら、現実の思考は型通りにはできていない。思考を文章に落とし込むとき、足りない部分は新たに考え出す必要がある。書こうと決意した時にはなかった思考を。ただ文の量を補充するためだけに、思考は異なる方向へと進む――こんなふうに。

 

語る予定のなかった思考を補充しながら、文章は整っていく。いま生まれた視点を軸に、文章は進んでいく。文章を整えるために主題は転換し、思いもよらぬ結論が導かれる。

 

整った文章は、こうして出来上がる。

そして、整った文章には、説得力がある。

最初の読み手としての書き手は、自らの文章に説得されて、

 

新たな思考を内面化する。

 

 

文章という要請によって、改変される私の思考。私は新たな視点を獲得し、同時に古い視点を失う。書くための動機としての思考は、書くことによって嘘になる。極論を言えば、私は考えたことを書いているのではない――書いたことを考えているのだ。

 

かくして、自らを整理するとき、私は代わりに別の何かを整理することになる。ストーリーという、思考と無関係であったはずの要請によって、不気味なほどに整えられた思考。自らを記録するための媒体で自らを変質させて、私は本当によいのだろうか?

 

さあ。

 

よい、とするだけでは、文章の結びとしては弱いだろう。それでも私は、それが執筆の醍醐味だと言おう。結局のところ、考えても思いつかないことはあるのだ。