ありのままを受け入れること

意志とは、惰性の連鎖を拒否することだ。

 

かつての私は、自らに意志を要求していた。無為に過ごすことを、自己研鑽のための時間を無駄にすることを、私は罰そうとした。貴重な時間を、ツイッター論客業に費やしたとき。大差のついたプロ野球の中継を、流されるがままに最後まで見てしまったとき。私の行動は矯正されなければならなかった。

 

しかし、結局のところ、怠惰は治らない。次に読もうと予定した学術書は、結局開かれずに放置される。半年前に立てた目標は、今となってはどうでもよいものだ。どうせ怠惰なら、意志など決して遂行されないのなら、せめて精神の安定を取ろう。惰性という宿命を受け入れよう。そう考えるようになったのが、三年ほど前のことだ。

 

このときから、私は意志を持つ主体ではなくなった。

その判断は、もちろん、何かを変えるものではなかった。

 

私が怠惰であることは許容される。許容してもしなくても、私は怠惰に変わりないからだ。私は将来像を描かない、輝かしい未来を目指して努力することはない。しかし、将来像を描いたことなど元来なかったのだ。私は今まで通り行動する。違うのは、ただ、それを受け入れることだけ。

 

私の人生に意志はない。ただ、偶然と必然が連鎖するだけ。私という物語を一番近くでただ眺めている存在、それが私だ。確かに未来は確定してはいない、でもそれを決めるのは私の意志ではない。だったら、ただ宿命を受け入れていればよい。この物語は、それでも意外と面白い――それで十分じゃないか。

 

 

でも、たまに。少しだけ、ほんの少しだけ。

残念に思うことがあるのだ。

残りがすべて、余生であることを。

私が、私の判断で、私の人生を終わらせたことを。