研究の競技性 ②

研究はいかにして競技とみなせるのか。研究の楽しみ方を考える上では、なかなかに興味深い話題だ。

 

もちろん、正義の意味ではこの問いは正しくない。研究とはひとと競うものではないということに建前上はなっており、わたしたちは個人の勝ち負けではなく、世界の発展のために働かねばならない。わたしたちは本来、だれかほかの研究者が出した結果を自分の結果のように喜ばなければならないはずなのだ。だって、それで世界が発展したのだから。

 

そしてもちろん、現実はそんなに公正ではない。人間は必ずしも、正義で動くわけではないのだ。

 

わたしたち、すなわち青年期を競技と共に過ごした人間にとって、勝ち負けとは身近なシステムだ。どんなことでも、勝利の二文字がかかっているのならば、より熱心に取り組める。勝利がつねに目標の中心に据えられるのかと言えば必ずしもそうではないが、それでも勝利と敗北がある以上、わたしたちは勝利を目指す。勝ちを決める基準がたとえ歪んでいたとしても、勝ち負けが定義されないよりはずっといい。

 

そして願わくば、研究もそうあってほしいと思っている。研究が競技であるならば、自分自身を奮い立たせるために、これまでにやってきたのと同じやり方を用いることができるからだ。

 

そして。けん玉にもルービックキューブにも競技団体がある。ならば、研究が競技になれない理由はない。

 

そういう目で見てみれば、研究を取り巻くシステムにはなるほど、競技の題材に使えるものが大量にある。その多くは、研究者の実績を客観的に評価するために作られたシステムだが(研究者という生き物は、なんでも数値的な仕組みにしないと気が済まないのだ)、勝ち負けを決めるシステムに流用するのは簡単だ。評価とはつまるところだれが上かを決めるためのシステムであって、それすなわち、だれが勝つのかを決める基準に他ならないからだ。

 

そして、競技だと思って眺めてみれば。研究者の一挙手一投足は、自分に紐づけられたスコアを上げるためのチャンスになる。

 

論文が一番の競技要素だ。わたしたちは論文を学会誌や会議に投稿するが、そのそれぞれのサイトにはスコアが定まっている。スコアの高さは論文の質を保証しており、アカデミアの正義の観点で語れば、よい論文を読みたければそういうところから探せば外れにくい、ということになっている。逆にいえば、そういうところに通せば、それだけ読んでもらえるようになる。

 

だが競技の目で見れば、まるきり順序は逆だ。論文のよさは、どこに通ったかによって定義される。論文を通す目的は、その質を保証してもらったり発表の機会を得たりすることではなく、「どこどこに通った」というトロフィーそのものにある。なぜなら、そういう競技なのだから。

 

正義と競技。研究に対する態度の、百八十度違う観点。だが重要なのは、わたしたちはひとつの事象を反対側から見ているだけだということだ。「よい」の定義がなんであるにせよ、わたしたちがやることが、「よい」論文を書くことであることに変わりはない。

 

だから。問うべきは、こういう世界観がどれだけ魅力的か、だ。

 

わたしにとって、競技の世界は魅力的だ。論文が通れば、それは通ったという事実によって正当化されてほしい。そして身近な誰かと比べて、俺はここに通したと言って勝ち誇りたい。あるいは、誰々はどこに通したのに、という種の悔しさを味わいたい。

 

この種の魅力は、いったいどれだけ、人口に膾炙しているのだろう。

 

競技には対戦相手が必要だ。同じ競技をプレイするだれかが。その相手もまた、研究を競技だと思っていなければならない。だれかを一方的にライバル視したところで、相手に競う気がないなら興醒めだからだ。

 

だから。

 

これを読んでいるあなたへ。わたしは対戦相手を待っている。

研究の競技性 ①

この日記に記される研究に関する話題と言えば、そろいもそろって否定的なことばかりだ。これではまるでわたしが研究を心底嫌っているみたいに見えるが、決してそういうことはない。研究のある側面はたしかに嫌いだが、全体として見れば、それなりに楽しいことであることは間違いないのだ。

 

もっとも、楽しいこととそう書くこととは違う。執筆という行為が老廃物を吐き出す活動である以上、書く内容は必然的に、愉悦よりも文句の優先順位のほうが高くなる。だから傍から見れば、なにかを書くひとはよりつぶさに、世界のすべてを憎んでいるように見えるのだ。その裏にある素朴な喜びが、めったに外部にまで漏れ出てこないばかりに、わたしたちを見たひとたちはこう思うのである。そんなに嫌なら、なんでさっさとやめてしまわないのか、と。

 

さて。会社で働いているひとが仕事の愚痴をこぼすことがいたって健全ないとなみであるのと同じように、博士課程の学生が研究に文句を言うのも、きわめて自然なことであるには違いない。だからわたしはこの日記が――文句だけを書き続けるスタイルが――、そう悪いことだとは思わない。しかしながら、学生には固有の事情がある。生きるための金を稼がなければならない労働者と違って、わたしたちは意志さえあれば、この研究という道楽を簡単に辞められるのだ。だからして、やめちまえ、の声を、わたしたちはそう無碍にもできないのである。

 

だから。今日はすこし趣向を変えて、研究の世界がどのようであれば楽しいのか、という話でもしてみよう。これならば見たひとはきっと、愚痴ではなく想像力の領域の話をしていると思ってくれるだろう。

 

どのような世界ならより楽しいのか。思うに、それを探る鍵は過去にあるように思える。研究の道を志した当時の、比較すれば純朴だった頃のわたしのなかに。

 

それは計算するに、四年ほど前のことだったように思う。

 

それまでのわたしは、勝ち負けのある世界に身を置き続けてきた。つねに勝利を至上命題としていたわけではなかったから、勝負の世界に生きた人間だ、と胸を張って言うのはすこし、おこがましいかもしれない。だがすくなくとも勝ち負けという概念は、つねにわたしの身近にあり続けていたのだ。

 

だからわたしが、研究に競技性を求めたのは必然だった。それもそのはず、競技とみなすことのできぬ何かに関しては、どう頑張ったらいいのかまるで分からない。ゴールを定めようにも、分野の発展とかいった数値化不能なゴールは、まったくゴールにはなりえない。そのようにして、ある意味では消極的に、わたしは研究を競技とみなした。

 

一面的な世界観に過ぎないことは認めよう。だが考えるほどに、それは無視できない一面であることも分かってくる。それもそのはず、研究とはけっこう、競技なのである。

反抗心という規範

学生運動に代表されるように、既存の考え方への反発とはいつの時代も、若者の行動の原動力であった。

 

この日記もある意味、そういうものだと言える。わたしの熱心な読者なら(そんなひとが果たしてこの世に存在しているのかはさておき)、わたしが研究職に文句を言うのを飽きるほど聞いているだろうし、だったらはやくやめちまえよ、とまで思っているかもしれない。「若者」としての連帯感、すなわち自分たちこそが新しい時代の標準であるといううぬぼれた自負を毛嫌いするものにとってはすこぶる気恥ずかしいことなのだが、わたしが日頃発露しているそれは、間違いなく反抗心なのだ。わたしの態度が典型的な若さそのものである、というのは認めたくない事実だが、結局のところわたし自身、どうにも否定しえないのである。

 

さらに言おう。若さの特徴のひとつに、若さという概念に対してきわめて保守的であることが挙げられる。すなわち若者は、新しいものはすべて無条件に正しく、古いすなわち粗悪なものはいずれ完全に淘汰される運命にある、と考えるのだ。ものの良しあしに新旧は関係ない、というのがフラットな立場であり、若者は自分たちがそういうフレキシビリティの中にいると信じている。しかし実際の若者は、老人イコール悪という古典的な世代間対立の構図にすっぽりと収まっているのだ。

 

そしてわたしも、その構図からは逃れられそうにない。

 

世代間対立にもいろいろあるが、そのひとつの重要な特徴として、道徳と自由の対立がある。老人は道徳を重んじ、道徳の枷を用いて若者を支配しようとする。若者は自由を重んじ、世界を統べる道徳を見れば、古臭く非合理的だと断罪する。老人の言う道徳が本当に道徳的なのかには議論の余地があるし、若者の言う自由が本当により解放された状態なのかもまた分からないが、少なくともとうの本人たちはその手の神話を信じて、対立というゲームをプレイしている。

 

さて。

 

若者からそうでない何かへの過渡期にあって、わたしにももちろん、道徳のようなものが芽生えている。昨日までに書いていた、研究と勉強の関係性についての話がそのひとつで、わたしは若者的な反抗心を持ちながらも、勉強の大切さについて一家言持ってしまったわけだ。日記にはわたしが考えたことを書きたいから、当然そういう道徳の話とて、書くに値するテーマではある。だがそういうものは説教臭いから、自由に対するわたしの価値観に反するのだ。変な言い方をすれば、反抗心という規範に反する、と呼んでもいいかもしれない。

 

それでも。芽生えてしまったものは仕方がない。わたしもいずれ老人になるわけだし、やがては若者を気にくわない同類ではなく、真なる敵として考え始める日がやってくる。その日のことを考えれば、説教臭くならないためだけに、せっかくこの身に芽生えた道徳を放棄するというのは、少々筋がよろしくない。

 

だからこそ。ひとつの折衷案としてわたしは、老人の口を借りてわたしの道徳を語らせた。反抗心という規範に照らし合わせれば、これでもまだ不愉快なことに変わりはない。

 

だが、それでも。一切の工夫なく、わたし自身のことばとして地の文で道徳を語るのは、やはりまだできそうにない。

輪講第一回 ③

喩えるなら、研究とは稲妻だ。

 

地面のはるか上空に浮かんでいる、巨大な電荷を想像してほしい。わたしたちのいる地表面と空には電位差があるから、導線か何かでつなげば、電荷は地面へと移動するはずだ。でも現実には、そんなことは起こらない。空気には巨大な電気抵抗があって、ふつうの状態なら、電荷には移動するための道がない。

 

だが、たまにその巨大な抵抗を超えて、電荷が移動することがある。これが稲妻だ。実際には、普段の空気の抵抗を超えるほどの巨大な電圧がかかるわけではない。わたしの専門ではないから詳しくはないが、たしか空気に絶縁破壊という現象が起こって、電気抵抗が急激に降下する。そこが、電気の通り道になる。

 

これがだいたい、研究のやっていることだ。電荷を目標に、地面を現状に置き換えて考えてほしい。

 

研究には巨大な目標がある。高度過ぎてとても、人類には手が届かない目標だ。目標は難しければ何でもいい――不老不死でもいいし、世界平和でもいいし、誰もが働かずに暮らせる世界でもいい。実際には目標はもうすこし具体的で、なにかの原理を言い当てる完全な法則を導くとか、有名な未解決問題を解くとか、ガンの特効薬をつくるとかそういうやつだ。時代をさかのぼれば、空を飛ぶとか遠く離れたひとに一瞬で情報を伝達する打とか、そういうのが目標だった頃もあった。とにかく目標は難しすぎて、現在のわたしたちからすれば、到底到達できそうにない。

 

これが、普段の大気の状態だ。抵抗が大きすぎるから、雷は落ちない。

 

けれどたまに、わたしたちと目標をつなぐ、一本の細い線が見つかることがある。それが、研究成果と呼ばれるものだ。

 

一撃の稲妻がすべての電位差を解放しないように、一本の論文そのものは、目標をまったく解決しない。でもちょっとだけ、解決する。空を飛びたいと願った人類が空を飛べたように、そういうことを積み重ねていけば、いつかは完全に安定した大気がもたらされるかもしれない。その日をわたしたちが見るかはさておき、見る未来を信じて、わたしたちは研究をする。

 

まあ、綺麗ごとではあるけどね。

 

じゃあようやく、最初のテーマに戻ろう。勉強とはなにか。それは、雷の落ちる先だ。

 

雷というものは、どこに落ちるか分からない。分かれば、ひとが巻き込まれて死んだりはしない。でも、全く分からないということもない。知っての通り、雷は高いところに落ちる。

 

勉強して身につく知識とは、そういう高台だ。地球上でいくら土を積み上げたところで雷の発生源には届かないけれど、近くに行くことまではできる。そうすれば雷は、より落ちやすくなる。ピンポイントで落とすことはできないけれど、平地でただ待っているよりは、ずっと成算のある作戦だ。

 

だから。

 

きみたちはこの本を読んで、何の役に立つのかと疑問に思うとおもう。ここから研究を進めようにも、なにを積み上げられるのか見当もつかないと思う。そうして、この分野でできることはすべてやり尽くして、体系は完成したと思うだろう。研究のアイデアなど、まったく湧いてこないだろう。

 

でも、それでいいんだ。

 

この本が何かの役に立つかは、現状分からない。雷が落ちる先は予測できないのだからね。でもたくさん読めば、どこかに雷が落ちる確率は、飛躍的に上がる。

 

そして。たくさん読むためには、一冊ずつ読んでいくしかないんだ。というわけで、担当決めを始めよう。だれがどの高台に立つのか、決めようじゃないか」

輪講第一回 ②

研究者がどんなときに本を書くのか考えてみよう。

 

可能性はいくつかある。ひとつ、あたらしいことを見つけたとき。でもこれは、本を書く動機にはならない。何故かはわかるね? そう、論文を書くからだ。自分の最新の成果を本に載せる研究者はいるし、だいたい最後の章を見るとそういうことが書いてあるんだけど――今回使う本はどうだったかな、覚えてないや――まあ、そのために本を書いているわけではない。

 

じゃあ、次の可能性を見てみよう。世の中には、出版社という団体がある。で、ことあるごとに本を書けって言ってくる。わたしのところにも先週メールが来て、うるさ――おっと、なんでもない。で、あと二回催促が来るまでは無視するつもりだね、ははっ。あっこれ、誰にも言わないでよ。

 

で。まあわたしを見ればわかるように、誰かに言われたくらいじゃひとは書かない。きみたちが半年かけてたぶん読み終わらないような分量を書くっていうのは、それなりに大変だからね。

 

じゃあ、なんで書くのか。それは、自分にしか書けないことがあるからだ。

 

ものごとを理解したいっていうのは研究者の根源的な欲求だ。論文っていうものはその点難しくて、たしかに結果は書かれているんだけど、どうやって理解したらいいのかまでは書かれていない。だからわたしたちはよく、色々な論文を見比べては、理解の方法を探している――きみたちもこれからこの授業で、理解の方法を探す、っていうことがどういうことなのか理解してくれると思っている。

 

で。そういう難しい論文をたくさん読んで、自分でも研究をしていると、不意に理解が訪れることがある。どこにも書かれていないやり方で、研究たちが一枚の布に織り上がるんだ。

 

それを研究者は、本にする。具体的な成果じゃないから論文にはならないけれど、重要な学術上の貢献だ。

 

さて。ここからが本題だ。本を読むだけで、新しいアイデアが思いつくのだろうか?

 

残念ながら。本を書いた人は、その本がある意味では、きれいな体系だと思って書いている。余計なものはなにもなく、足りないものはあるけれど、その穴は筆者含め、世界中の誰も埋められていない。穴があることを筆者は認識していて、埋めたいと思っていて、それでもなお埋められない。

 

一般論だが、誰かが考えてわからなかった問題は難しい傾向にある。だから。本を読んで見つかる穴を突っつこうとしても、まず泥沼にはまるだけだ。わたしたちが研究をするとき、そういう綺麗な体系をあえて別の角度から見て、本の著者すら気づいていなさそうなことを考える。そういう視点は、残念ながら、著者の議論を追うだけでは見えてこない。

 

じゃあ。きみたちはなぜ、本を読むのか。本を読むことが、なぜカリキュラムに組み込まれているのか。

 

もっと言えば、どういう読み方をされるために、本は書かれるんだろうか。

 

これは、勉強と研究にどういう関係があるか、という問題にかかわってくる。

輪講第一回 ①

「時間だね。それじゃあ、はじめようか。

 

卒業輪講、第一回。担当の R だ。本は……ちゃんとみんな、持ってきているようだね。よろしい。これから半年間、週に一回、きみたちと楽しく議論できればと思っている。よろしく。

 

……といっても、きみたちには二年生の時の授業で一度会っているはずだね。だからわたしがどういう人物かは、きっともう分かってくれていると思う。まあ、きみたちが授業に来ていたのなら、の条件付きだけどね。

 

そこの一番後ろのきみ、来てた?

 

……ははっ。なぁんだよ、その苦笑いは。まあ、いいか。あの授業人少ないもんね。じゃあ、始めよう。

 

輪講、というのをやったことがあるひとは?

 

ちらほらいるね。まあ、やったことがないひとも、わたしが指導するから大丈夫だ。

 

この授業では、半年をかけて、わたしたちで一冊の本を読む。内容は最新の研究を反映しているから、普段の授業よりだいぶ専門的だ。だからといって、身構える必要はない。専門的っていうのはべつに、難しいってことじゃない。ただ、新しいっていうだけだ。

 

中身をめくったひとなら分かると思うが、ひとりでこれを全部読む、っていうのは現実的じゃない。だからわたしたちは、手分けして読む。それぞれ担当の箇所を読んできて、この授業で、全員の前で発表してもらう。そうすればひとりぶんの労力で、五人分勉強できる、ってわけだ。

 

今回はまあ……この場で読んで発表するっていうのは無理だから、担当を決めておしまいかな。ただそれだと味気ないから、ちょっとひとつ、話をしてみることにしようか。

 

話のテーマは、学術書とはどういうものか、だ。

 

きみたちにはこの先、研究というものが待っている。

 

研究とは何か……というのは難しい問いだが、まあ、学問なるものを前に進める作業だと思ってくれれば間違いではないだろう。この本には最新ではないけど、近年になってわかったことが書いてある。これより先に行こうと思えば、最新の論文で、この本に書かれている結果の一部がさらに更新されているはずだ。

 

だから厳密なことを言えば、本当の最新を追いたいのなら論文を読むべきだね。だけれど論文というのは、その……うん。全然まとまってないし、しかもたまにものすごい文章を書いてくる著者がいて――この前の論文、本当に誰か読んでるのかなぁ?――とにかくすごく読みにくい。きみたちのような用途なら、すこし最新と離れていても、誰かが体系的にまとめてくれたものを読むのが一番いい。

 

それで、だね。最新でないと言っても、まあ、たかが数年だ。分野によっては数年は大きいけれど、この分野は違う。だからこの本に書いてあることは、最新じゃないんだけど、たいてい最新だ。

 

だから。研究をするためにこの本を読むっていうのも、全然ありだ。きみたちはそういうのを読むところにいる、っていうことを誇りに思ってほしい。

 

さて。じゃあこの本を読めば研究ができるんですか、ってきみたちは思うかもしれない。でも、そんなに簡単じゃない。できたらもちろんいいんだけどね。

金になること? (前)

アカデミアの世界は、世界中の誰にでも開かれている。そのひとの経歴によらず、どこに住んでいるのかにもよらず、とにかく論文を書けば誰でも、学会誌に投稿して公平な査読を受ける権利を持っているからだ。分野によっては、研究設備が高価すぎてとても個人では買えなかったりもするが、とにかく理論上、どこの誰であっても論文を出版することはできる。

 

だが実際問題、ほとんどの研究者はしかるべき機関に雇われて研究をしている。原因は生計の問題かもしれないし、あるいはやる気の問題かもしれないが、とにかくそうなっている。かくいうわたしもそのひとりで、博士課程学生をしながら、なんとか研究員と名の付くいくつかの身分で給料をもらっている。

 

だからわたしは、日夜研究活動に励んでいる。本当に励んでいると呼べるかはさておき、とにかくそういうことに、すくなくともなってはいる。給料をもらっている分は、働いているということにしなければならない。

 

しかしながら。わたしたちの分野でどれだけ論文を書こうが、それは給料に見合うだけの価値をもたらさない。よりはっきり言えば、わたしたちの書く論文は一銭たりとも生み出さない、ただの趣味の文書でしかない。

 

それもそのはず。だってわたしたちのやることはどれも机上の空論で、実際の技術に応用されることなど、まずありえないのだから。

 

さて。わたしたちのやることが役にも立たないのは確かだが、だからといって、金にならないと結論付けるのはいささか早計かもしれない。それは資本主義社会が、必ずしも役に立つことだけでできているわけではないからだ。世の中の金の流れを考えてみよう。

 

わたしたち一般庶民にとっては、金を使うとはすなわち、なにかを消費するということだ。結構な割合で使い先は食べ物で、もうすこし一般的に言えば、物質だ。たまには物理的実体のないものを買う場合もあるが……まあ、それもまた、消費活動のひとつに他ならない。

 

そういう目線で見れば、わたしたちの仕事は何の金にもならない。世の中で一番金になる仕事とは野菜をつくる農家であり、野菜を運ぶ物流業者であり、それを売る小売業者だ。それ以外の仕事は、わたしたちが金を出すに値しない虚業だ。

 

だがそれ以外の仕事も存在すると、わたしたちは知っている。

 

たとえば、投資家という仕事がある。わたしは詳しく知らないから、テレビの中のステレオタイプでも語ってみることにしよう。

 

わたしの想像の中の投資家はパソコンの前に座し、眼精疲労と戦いながら、謎の長方形の書かれたグラフを睨み続けている。画面にはなにやら大きな数字が書かれていて、刻一刻と変化を続けている。驚くべきことは、その高速に増減する謎の数値が、わたしたちが普段金と呼んで親しんでいるものと同一らしいことだ。投資家はときおり、狙いすましたような顔でボタンを押し――そしてその操作でどうやら、利益なり損失なりが確定しているらしい。

 

素人目には、その仕事はなにも生み出していない。わたしたちの論文と同様に、何の役にも立っていない。だが彼らの、たった一回のクリックで、わたしたちの消費活動とは比べ物にならない額の金が動いている。

 

では、どうしてそんなことが起こるのだろうか。

 

ひとつの答えは、こうだ。具体的な豊かさ以上に、豊かさへの期待が金を動かす。